2014年8月21日木曜日

若き日本の肖像を読む。3

http://sauber.yaekumo.com/prof/p_saionji.htm
引き続き、若き日本の肖像-1900年 欧州への旅ーについてエントリーする。まだパリの話が続く。1871(明治4)年、西園寺公望が(多感な二十歳代の)十年間の永きに渡りパリに留学している。当時のフランスは、パリ=コンミューン、普仏戦争の敗北、ナポレオン3世の退位、ベルサイユ宮殿でのドイツ帝国成立宣言という敗戦後の混乱と第三共和制を巡る騒乱であった。この留学中、中江兆民と親交を深める。九清華家の出身ながら、帰国後も自由民権運動には理解があったのはこのためである。特筆すべきことは、クレマイソーと親交を深め、帰国後も書簡を交換する仲であったたことである。クレマイソーは、第一次世界大戦中のフランス首相であり、ベルサイユ講和会議の議長である。めぐり合わせというか、帰国後約40年、日本の首席全権大使として会議に参加する。

ベルサイユ条約の主役は、ドイツへの復讐心に燃えた「タイガー」と呼ばれた議長クレマイソー。理詰めで鋭い舌鋒から「ドラゴン」と呼ばれたウィルソン米大統領。その指導力としたたかさで「ライオン」と呼ばれたロイド・ジョージ英首相。1ヶ月半も遅れでパリに到着した西園寺は「ただの一言も発言せず」に怖い顔で睨んでいたので「スフィンクス」と呼ばれていたのだという。

結局、このベルサイユ条約で、日本は(当時流行語となった)「一等国」として五大国会議に入ったものの、中国でのドイツの権益であった山東半島を得ることのみに執着し、戦勝国・中国と対立する。ウィルソンは中国を支持する。そこでウィルソンの提唱する国際連盟不参加と(カリフォルニアへの日本移民排斥への対抗策だった)「人種差別撤廃条項」を国際連盟の規約に入れることを提案する。この結果は、中国進出を悲願としていたアメリカを完全に敵に回すことになるのだ。この時の全権団のあまりに稚拙なインテリジェンスが、次の時代の悲劇を呼ぶことになるのである。

…日露戦争までの日本を絶賛し、それ以後の日本人はだめになったと評する司馬遼太郎の史観はこのところ批判されがちなのだが、著者の寺島実郎は司馬史観を大いにかっている。この西園寺の姿勢を見るとたしかに司馬・寺島派に分があるように思ってしまう。ただ、このベルサイユ条約も国際連盟も、世界史の大局から見ると明らかなミステイクだといえる。どんどんと破局点へ向かって流れていったように見える。

…少なくとも当時よりは、日本のインテリジェンスもましになっているとは思うのだが、欧米的な価値判断・インテリジェンスだけが正義だとも言いがたい。ますます欧米的価値観とアンチテーゼとしてのイスラム原理主義が対立を深めている。極めて憂慮すべき事態だ。

…果たして日本は、「スフィンクス」として沈黙を守るのだろうか。それとも「ライオン」や「タイガー」になってしまうのか。

…「世界の警察」という立場を放棄し、イラク戦争に反対したノーベル平和賞受賞者の大統領が「中東のガン」とまで「イスラム国」(ここも、”たいがい”やが…。)を罵倒した日に。

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