先日、長崎の原爆資料館を訪ねた(8月3日付ブログ参照)際、妻が「永井隆の生涯」(片岡弥吉著/サンパウロ)を買い求めた。その後一気に読んだという。妻に勧められるままに、今、私も読んでいるのだが、ほんと凄い人物である。どこから永井隆博士のことを書けばよいのか、迷うのだが、まずは、原爆被災までの生涯のアウトラインを示したい。
松江の藩医の家に生まれ、松江中学・高校を経て長崎医大へ。急性中耳炎を患った関係で、内科をあきらめ、放射線医学を専攻。二度の召集に軍医として従軍。長崎医大に戻り物理的療法科部長。喘息の持病だけでなく、(まだ技術が未完成だったレントゲン撮影を繰り返した関係で被爆)白血病となり余命3年の診断を受ける。その2ヵ月後原爆被災。右側頭動脈切断、出血をおして救護活動に挺身すること3日間。
今日は長崎の原爆の日である。永井先生の救護活動の様子をまず記しておこうと思う。永井先生のいた長崎医大の物理的療法科は原爆が爆発した松山町上空550mのところから約700mの距離にあった。8000℃の高温と秒速2kmの風圧に等しい圧力を受けたが、鉄筋コンクリートの建物だったゆえに負傷だけですんだ。とはいえ、全身にガラスの破片が突き刺さり、特に右目の上の動脈を切って全身血だらけで、破壊されたからくたからやっと抜け出した。
婦長ら部下が集まってきた。さっそく外来患者でまだ生きている人々の手当てを始める。三角巾も包帯もまもなく使い果たし、シャツを切り裂いては傷を巻いていく。両手で手当てしていると永井先生の右頭の傷から水鉄砲で赤インクを飛ばすように血が吹いて婦長の方を赤く染めたという。凄いのは、「この動脈は小さいから、まああと3時間は私の体はもてるだろうと計算しながら、ときどき自分の脈の強さを確かめつつ患者の処置を続けた。」という危機に際して冷静な判断をされていることだ。さらに、まず隊の集結、編成、衛星材料の確保、食料の調達、野営の準備それができたら(病院関係、軍、行政等の)上下左右の連絡、野戦病院の位置選定とこれからの打つ手を思い浮かべていく。被災後20分。各地で火の手が上がる。部下に、物理的療法科の機材の確認をさせ、報告を受けると、ニヤリと永井先生は笑う。「おたがいのざまを見ろ。それじゃ戦場へ出られんぞ。」「さあきちんと身支度をして玄関前へ集まろう。おべんとうを忘れるなよ。腹は減ってはいくさはできぬぞ。」部下に平常心を取り戻させた永井先生は、燃え盛る病棟から患者を担ぎ出し、玄関前や裏山へ運び出させる。3時間後、救出できるだけ救出した永井先生は、重傷の身で横たえている学長に報告すると卒倒した。以来、3日間さらに自分たちの家のことはおくびにださないで医療班の任務につく。
永井先生が、指揮者の許しを得て浦上の自分の家に向かったのはその後である。あとは、原文のまま。
わが家の焼け跡の狭さ。
あった、あった。灰の上に少し高まって現れている黒いものー春野よ!
台所のあと、茶わんのかけらのかたわらにーたったこれだけの骨になって…。
近寄って手をかけた。まだほのぬくかった。拾い上げたら、ああ軽くーぽろりとくずれた。
骨にロザリオのくさりだけがまつわっていた。(春野はみどり夫人をさす)
永井さんは妻みどりさんの遺骨ー骨盤と腰椎とを拾って、焼バケツに入れた。まだぬくかった。骨をいだいて防空壕にころがったまま昏眠に陥った。明くれば12日、空はほのぼのと白みゆき、さわやかな朝風が永井さんの意識を呼びさました。ロザリオを取り出して、灰の上にひざまずき、聖母に祈った。
義母と息子・娘は光山町に疎開させていたので無事だった。永井さんは母を失った子を慰める暇もなく、すりこぎとなってまた駆けずり回る。負傷者もかなり落ち延びてきていた。巡回診療を開始するのである。
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