2014年8月22日金曜日

若き日本の肖像を読む。4

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若き日本の肖像-1900年 欧州への旅ーについて今日もエントリーしたい。ロンドン編である。ロンドンといえば夏目漱石だが、エントリーしたいのはオッペケペー節の川上音二郎の話である。1964年生まれの川上音二郎は、まさに遅れ来た政治青年である。当時の政談演説は大衆芸能の趣があったようで、ここから壮士劇のような新演劇が生まれたようだ。川上音二郎は、上方講談組合に入った後、落語家として高座にも上がった経験もある。浅草で書生演劇・川上音二郎一座で「板垣君遭難実記」が大当たり。幕間でやったオッペケペー節も大当たりした。後に1900年のパリ万博で公演された際のLPが復刻され、それを聞いた著者の寺島実郎は抑揚のない早口の連続だと酷評しているが…。

1898年の衆議院議員選で落選した川上音二郎は、失意の後に海外演劇公演を思い立ちサンフランシスコに渡航する。ここでは、出演の予定のなかった妻の貞奴の「道成寺」が大うけした。ボストン公演中に英国の俳優と知り合い、大西洋を渡ることになるのだ。「なんでも吸収、なんでも利用」の音二郎一座は、ベニスの商人を「才六 人肉質入裁判 白洲之場」と翻訳して欧米公演の定番演目にする。才六はシャイロックのことである。これは笑える。英国では、皇太子時代のエドワード7世上覧の栄も得ている。さらにフランスで123日間にもわたる万博公演となるわけだ。ちなみに夏目漱石は、この公演中に万博を訪れているが、日記には何の記載もないそうだ。一時帰国後も再び欧州各国巡業を行い、日本演劇史上、舞台音楽や証明技術など欧米の新しいスキルを持ち込み、日本でのシェークスピア作品の上演や切符制・短時間公演など興行方法の改革も行って大きな軌跡を残したといえるわけだ。

著者・寺島実郎は、川上音二郎の欧米巡業によって、日本の固定観念がある程度固まってしまったと批判する。サムライ・ハラキリ・ゲイシャ…といったステレオタイプの日本観である。興行主との契約で、一回の舞台で必ずハラキリ・シーンを入れるというのもあったらしい。当時はジャポニズムへの関心が高かった時代で、1885年にギルバート作のオペレッタ「ミカド」がロンドンで初演され爆発的なヒットとなった後に、本物の日本人劇団がやってきたというわけだ。その後1904年、プッチーニのオペラ「蝶々夫人」に繋がっていく。

…若い頃、地理の最初の授業で、世界の教科書に書かれている日本について講しだ事がある。当時の日本への認識はまあ、ひどいものだった。きちんとこちらも学ばないと同じ過ちを犯すことになるで、という警告的な授業内容だったのだが、今は情報化社会。リアルタイムで世界の映像が流れる時代になった。寺島実郎氏の杞憂が、この15年ほど(本書が書かれたのは2000年頃)で払拭されつつあるような気がする。

…ところで、この章に出てきたオペレッタ「ミカド」は、猪瀬直樹の「ミカドの肖像」に詳しい。ナンキプーという主人公が出てくるのだが、同じキャスティング名で、オリジナルのオペレッタの脚本を書き上演したことがある。副題は、”ミカドはジグソーパズルがお好き。”
架空の「ミカド」のクニ。ミカドは個性のない国民を作ろうと画策するのだが、皇太子ナンキプーが「人間の本質は個性豊かなことだ。」と革命を起こすという物語。実存主義哲学者ハイデッガーの「(誰でもない)ひと」と「世界内存在としての疎外」を基本ポリシーに置いた物語だった。なんだかなつかしい。公演に向けて様々なドラマがあった。
川上音二郎という人物、直情的で、なんでもありで、あまりポリシーを感じないが、演劇という世界に住む魔物に取り付かれた人生、なんとなく判るような気がする。舞台に挑んでいる3年生たちにも是非味あわせてあげたい感覚だ。今日も、わがクラスは汗を書きながら準備に勤しんでいた。

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