2011年11月6日日曜日

SONYのCMを厳しく批判する

最近のSONYのブルーレイだかなんかのCMは、非常に不愉快である。私はSONYという企業を尊敬しているので、余計いら立つ。子供が、父親に詰問するように、頼んだビデオをうまく取ってくれなかったと言うCMだ。何故、父親が子供にそんな事をいわれなければならないのか。父親の権威が失われ、エディプスの三角形がいびつになり、社会性を失う子供が出来るのだ。自分でやれ、自分で。子供に難しい操作なら、我慢しろ、と言いたい。

SONYのCMの狙いは、SONYの製品ならこんなことを言われませんよということなんだろうが、およそ企業イメージを損なうCMだ。電通か博報堂の誰の企画だか知らないが、「小皇帝」の言いなりになってどうする。こういう積み重ねがサブリミナル効果になっていくのだ。

少し、昨日の「渚会」での話の続きを書こうかと思う。それは、教育現場の危機的状況の事例である。昨日のブログでも書いたが、共にアメリカ研修旅行に行った先生方は、ほとんどリタイアされている。
ある小学校の先生(もちろんリタイアされている)は、今教務主任をされているらしい。「?」以前、女性教員が懐妊されてその代りに何カ月か勤務されていたらしい。その後、違う学校からお呼びがあり、様々な期間勤務するということが続いたとか。で、今は「教務主任」だとか。教務主任は学校の要である。授業の時間割や日程、その他学校の実務をコントロールする重責である。いくらベテランだといっても、その代役とは…と私が思っていると、「その学校の教務主任さんが、急遽教頭になりはったらしいんねん。」…ということは、誰か教頭がやめたか休職したことになる。「よくあることやで。」と小学校の先生方。「私もやめよと何度も思った。」とのこと。

ある中学校の先生は、若い教員について「信じられへん。」と怒っておられた。煙草すってる生徒を前に、「君たち、やめなさい。体に悪いよ。」という弱々しい指導が精一杯らしい。この話への反応については、とてもブログで書けるような内容ではないので割愛するが、こんな教育が、わけのわからない権利ばかり主張する人間を再生産するのである。ダメなモノはダメ。ルールはルール。児童や生徒の顔色を見てばかりでは、教育は成立しない。案外子供は、純粋で正直である。教師を見抜く。自信を持って対することができるか否かにかかっているのだ。

幸い、高校は義務教育ではない。本校の生徒は、自転車から降りて挨拶するよう躾けられている。かならず敬語で対応する。そういう礼儀を守れてこそ、自己の主張が認められる。それが社会のルールである。甘えを助長するだけの教育は日本を危うくする。CMを見て、そういう感想を持つのは私だけだろうか。

2 件のコメント:

  1. あのCMみた時にこれが普通になっていくことに疑問を感じました。父性が母性かという区分にするといろいろ意見もありそうですが、ある種の「権威」が、家庭でも、学校でも、会社でも崩れているのは、社会にとってあまりいいことではないですね。そういう風潮を助長してしまうような気がします。

    かといって、権威を絶対とすることにも抵抗を覚えます。ここに至って、対話ということの重要性が、言葉の重要性が高まっているように思えます。でも、言葉にできないことも大切にしたい。

    支離滅裂ですみません

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  2. 非常勤講師さん、コメントありがとうございます。権威を絶対とする必要はありませんが、私は発達心理学的には、父権の重要性を認めたいと思います。厳しさの中に父親的な愛情。「巨人の星」で、甲子園出場時、飛雄馬が東京駅を立つ際、ホームの端でVサインを出す星一徹。こういう接し方ですかね。優しさの中での厳しさもありで、私も学校では好々爺かつ、叱る時は恐ろしい教師です。ぶれない姿勢。これはゆるすが、これはゆるさない。子供に自分の価値観はこうだ、と言う事をしっかりと認知させれる大人でありたいと思っています。

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