と、いうわけで今日はブータンの話である。先日書いた(10月31日付ブログ参照)が、未読だった五木寛之の「百寺巡礼 ブータン」(講談社文庫)を読み終えた。あまりに面白いので、今朝の通勤時に放出駅を乗り過ごしてしまったくらいだ。ブータンについては、それなりの知識はある。チベット密教についてもそれなりの知識もある。だが、この本は面白かった。その理由は何か考えてみた。五木寛之は、最初ブータンの人々や風景(棚田や森)に懐かしさを感じ、後に違和感を感じたと最初に何度も繰り返しているからだ。その違和感とは何か?私は気になって仕方がなかったのである。
水力で回るマニ車(WEBから借用) |
五木寛之の違和感は、結局のところ、極彩色の呪術性にあったようだ。似て非なる密教のヒンドゥーとの結合に、日本的な感性が悲鳴をあげたようだ。この本の最大の面白さは、その違和感をブータン研究所所長のカルマ・ウラ氏(オックスフォードで社会学博士の称号を得たブータンのオピニオンリーダー)にぶつけるところである。このカルマ・ウラ氏は日本にも9カ月暮らした経験があり、共に日本とブータンという異文化を理解しようと努めている対話となる。
この対話は極めて示唆的である。カルマ・ウラ氏は、「日本人の行動パターンは非常に自制がきいている。見えない規制が社会にある。決めつけすぎの社会である。」と言う。ブータンは、まったく異なる。ゆるやかな感覚が支配する。カルマ・ウラ氏は、「日本の規制の必然性を経済大国をつくるという一点に結論づけた。近代的な組織をつくり、その一部となってきた。故に個人の充足感や自然、人間関係などを犠牲にしてきたのではないか。」「日本はハード面は成功したが、ソフト面は置き去りにしてきたのではないか。」と語る。「目に見えないものの価値を忘れてはならない。」とも。
ブータン国王 |
天皇にブータン国王にお会いしていただきたかったと私が最初に書いたのは、天皇が無私を極めた人格だからだ。縁起的構造の化身である国王と無私の天皇。コトバではおそらく表現できない出会いが実現できなかったのは残念である。…「目に見えないものの価値を忘れてはならない。」
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