2011年11月16日水曜日

五木寛之「百寺巡礼」ブータン

ちょうどブータンのワンチュク国王が来日されている。天皇陛下が気管支炎で入院されているので、お会いになれなかったようだ。陛下のご回復を祈らずにおれないところだ。実に残念である。ブータン国王には、陛下に是非とも会っていただきたかったと私は思っている。

と、いうわけで今日はブータンの話である。先日書いた(10月31日付ブログ参照)が、未読だった五木寛之の「百寺巡礼 ブータン」(講談社文庫)を読み終えた。あまりに面白いので、今朝の通勤時に放出駅を乗り過ごしてしまったくらいだ。ブータンについては、それなりの知識はある。チベット密教についてもそれなりの知識もある。だが、この本は面白かった。その理由は何か考えてみた。五木寛之は、最初ブータンの人々や風景(棚田や森)に懐かしさを感じ、後に違和感を感じたと最初に何度も繰り返しているからだ。その違和感とは何か?私は気になって仕方がなかったのである。

水力で回るマニ車(WEBから借用)
そんな中で、水力発電でインドに電力を送っているブータンの現実に笑えた。いや、それよりも、水力でマニ車を回しているという話に感激した。(マニ車というのは、中に経典などが入っていて、1回時計回りに回すと、その経典を1回唱えたことになるというものである。手に持つタイプのモノを以前、香港で見つけて教材用に購入し、私は社会科教室に保管している。)この水力で動かすマニ車、WEBで調べると、マニ車の祠というか、それぞれ建物に入っているらしい。(上の画像参照)風にたなびくダルシン(経文を書いた赤や黄や青、緑といったカラフルな布で、ひもで結びついている。これも民博で教材用に購入した。同じく社会科教室に保管中。)同様、人々だけでなく、ブータンの自然までもが、信仰を支えているわけだ。面白いよなあ。

五木寛之の違和感は、結局のところ、極彩色の呪術性にあったようだ。似て非なる密教のヒンドゥーとの結合に、日本的な感性が悲鳴をあげたようだ。この本の最大の面白さは、その違和感をブータン研究所所長のカルマ・ウラ氏(オックスフォードで社会学博士の称号を得たブータンのオピニオンリーダー)にぶつけるところである。このカルマ・ウラ氏は日本にも9カ月暮らした経験があり、共に日本とブータンという異文化を理解しようと努めている対話となる。

この対話は極めて示唆的である。カルマ・ウラ氏は、「日本人の行動パターンは非常に自制がきいている。見えない規制が社会にある。決めつけすぎの社会である。」と言う。ブータンは、まったく異なる。ゆるやかな感覚が支配する。カルマ・ウラ氏は、「日本の規制の必然性を経済大国をつくるという一点に結論づけた。近代的な組織をつくり、その一部となってきた。故に個人の充足感や自然、人間関係などを犠牲にしてきたのではないか。」「日本はハード面は成功したが、ソフト面は置き去りにしてきたのではないか。」と語る。「目に見えないものの価値を忘れてはならない。」とも。

ブータン国王
五木寛之は、彼との対話の中で、ブータンのソフト面を、縁起、輪廻という側面から分析する。また「死の質」という面からも論じる。これもなかなか面白い。極めて要約的にい言えば、ブータンの人々は、輪廻を信じるがゆえに、墓も作らないし、動植物を殺さない。自己の幸福は他者や自然の幸福であるという縁起的な構造の中で生きていると言えよう。ブータンに花屋がないことには感激した。花もまた命ある存在なのである。個人から全てを見るのではなく、花からも自分を見れる縁起的構造は凄い。さらにブータンと言えば、GNH(国民総幸福量)である。これにも当然触れている。この本は、ブータンから見た幸福論であり、日本論でもある。

天皇にブータン国王にお会いしていただきたかったと私が最初に書いたのは、天皇が無私を極めた人格だからだ。縁起的構造の化身である国王と無私の天皇。コトバではおそらく表現できない出会いが実現できなかったのは残念である。…「目に見えないものの価値を忘れてはならない。」

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