2017年5月19日金曜日

書評 ラザク先生の戦後(3)

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書評第3回目は、ラザク先生と「ルックイースト政策」についてエントリーしようと思う。
1970年、ラザク先生は再び語学研修所の講師としてKLに戻ってくる。76年には、RTM(ラジオ・テレビ・マレーシア)の教育番組に、ジャウィ(マレーシア語のもととっているアラビア文字表記)の講師として(週1回)1年間務める。翌年マレーシア国王から、語学教育への貢献と功績で「護国章」を与えられる。当時52歳、比較的若い受賞であった。その後もスルタンや政府からも名誉勲章を受けている。長男は語る。「父は、ことばで他者とつながろうとしていた。父がマレーシア語に加えて、日本語・英語がとても流暢であることは知られているけれども、それだけでなくタミル語も中国語もできたからね。父が日本語で話している時は、礼や相槌の打ち方まで日本人のようだった。」教師としてのラザク先生を知る人は口をそろえて「(ラザク先生は)異なる文化をたえず探求し、自らの精神を伝えようとしていた。」と言う。
ジャウィ文字 https://en.wikipedia.org/wiki/File:Johor_Bahru_Jawi_Latin_Street_Sign.jpg
ところで、独立後、マレーシアの日本大使館で日本語学校が開設された。大使館や日本語教師との交流が始まる。1978年、ラザク先生はシャーアラム(KLから車で1時間くらいのセランゴール州の州都)にあるマラ工科インスチュートに着任する。ブミプトラ政策の人材育成の本拠地のような処だ。82年、ラザク先生は、ルック・イースト政策プログラムに着任、講師としてプログラムの主任も務めることになる。日本の大学や高専に留学するコースと社会人を対象とした研修プログラムもあったそうだ。ラザク先生は、唯一のマレー系でメッカ巡礼経験のある年長者である。おのずとリーダーとして尊敬されていたという。当時50歳半ば、教師として円熟の域に達していて、学生たちにも大変に慕われていた。講義の準備は周到で、規律に厳格な先生としても知られていた。しかし厳しいだけでなく、冗談を交えペロッと舌を見せて学生たちの緊張を解く。教室は笑いが絶えなかった。学生たちからも戦中広島に行っていたことは知られていて、「ハジ・ラザク」(ハジはメッカ巡礼経験があることを示す尊称)と呼ばれていた。不思議なことに、ラザク先生の担当するクラスは試験の平均点が高かったという。厳格なラザク先生であるから採点が甘いはずがない。「それだけ授業の質が高いのではないか。」とスタッフは思っていたという。プログラム運営にも細やかに気を配っていた。早く日本に慣れるよう知恵をしぼった。始業前にラジオ体操をすることもそのひとつだったという。

当時の日本人スタッフの印象は、何事にも柔軟で、他人に無理強いすることなく、間接的に気づくように導いた。普段は気さくで物腰もやわらかいというものだったが、こんなこともあった。「大事な話がある。」とある日本人教師に改まって告げたときのことである。相手を座らせ、目をみすえる。そしておもむろに自分の人差し指で、机の上に置かれた相手の手の甲をピン止めするかのごとく、ぐっと押さえつける。再び相手の目を見て、深い声色で伝えるべき事をゆっくりと話し始める。たしかにこうされると、聞き手は体を動かすことができない。指一本で固定されたまま動けなくるのだから不思議である。ラザク先生の言葉に集中せざるを得ない。伝えられる言葉はたんなる音声を超えて、心を深く摑むことになる。著者もインタビュー後、お礼を述べ深々と頭を下げたとき、ふいに肩をつかみグッとつかみ力を入れて「気をつけて帰って下さいねえ。」と言われたとき、背筋が伸びた経験をしている。ラザク先生の子供たち、教え子たちは、こうやって育てられたのだろうと強く感じている。

…教師として、ラザク先生から学ぶことは実に多い。今日最後にエントリーした人差し指の指導には強い感動があった。私は、「姿勢を正して聞いてくれ。」という一言で、本当に重要な話をすることが多い。多くの教え子の読者は、なつかしく思うかもしれないが。こういう指導ができるようになったのは、やはり50代前後からの気がする。全人格で勝負する時には、その人なりの自分のスタイルができるのではないだろうか。

3 件のコメント:

  1. 84年当時の懐かしい同僚を発見しました。いまはペラ州で日本語を教えています。楽しい記事、ありがとうございます。

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    1. Unknownさん、コメントありがとうございました。
      ラザク先生を私は非常に尊敬しています。ご子息のタンスリとも何度かお会いして、凄い方で尊敬しています。
      3月に一時帰国しますが、できれば原爆で倒れ、京都で亡くなられたラザク先生のご友人のお墓参りをしたいと考えています。

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  2. ご存知かもしれませんが、Gombak には ラザク先生の墓地があります。その近所の先生の実家でよく食事したものです。

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