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1970年、ラザク先生は再び語学研修所の講師としてKLに戻ってくる。76年には、RTM(ラジオ・テレビ・マレーシア)の教育番組に、ジャウィ(マレーシア語のもととっているアラビア文字表記)の講師として(週1回)1年間務める。翌年マレーシア国王から、語学教育への貢献と功績で「護国章」を与えられる。当時52歳、比較的若い受賞であった。その後もスルタンや政府からも名誉勲章を受けている。長男は語る。「父は、ことばで他者とつながろうとしていた。父がマレーシア語に加えて、日本語・英語がとても流暢であることは知られているけれども、それだけでなくタミル語も中国語もできたからね。父が日本語で話している時は、礼や相槌の打ち方まで日本人のようだった。」教師としてのラザク先生を知る人は口をそろえて「(ラザク先生は)異なる文化をたえず探求し、自らの精神を伝えようとしていた。」と言う。
ジャウィ文字 https://en.wikipedia.org/wiki/File:Johor_Bahru_Jawi_Latin_Street_Sign.jpg |
当時の日本人スタッフの印象は、何事にも柔軟で、他人に無理強いすることなく、間接的に気づくように導いた。普段は気さくで物腰もやわらかいというものだったが、こんなこともあった。「大事な話がある。」とある日本人教師に改まって告げたときのことである。相手を座らせ、目をみすえる。そしておもむろに自分の人差し指で、机の上に置かれた相手の手の甲をピン止めするかのごとく、ぐっと押さえつける。再び相手の目を見て、深い声色で伝えるべき事をゆっくりと話し始める。たしかにこうされると、聞き手は体を動かすことができない。指一本で固定されたまま動けなくるのだから不思議である。ラザク先生の言葉に集中せざるを得ない。伝えられる言葉はたんなる音声を超えて、心を深く摑むことになる。著者もインタビュー後、お礼を述べ深々と頭を下げたとき、ふいに肩をつかみグッとつかみ力を入れて「気をつけて帰って下さいねえ。」と言われたとき、背筋が伸びた経験をしている。ラザク先生の子供たち、教え子たちは、こうやって育てられたのだろうと強く感じている。
…教師として、ラザク先生から学ぶことは実に多い。今日最後にエントリーした人差し指の指導には強い感動があった。私は、「姿勢を正して聞いてくれ。」という一言で、本当に重要な話をすることが多い。多くの教え子の読者は、なつかしく思うかもしれないが。こういう指導ができるようになったのは、やはり50代前後からの気がする。全人格で勝負する時には、その人なりの自分のスタイルができるのではないだろうか。
84年当時の懐かしい同僚を発見しました。いまはペラ州で日本語を教えています。楽しい記事、ありがとうございます。
返信削除Unknownさん、コメントありがとうございました。
削除ラザク先生を私は非常に尊敬しています。ご子息のタンスリとも何度かお会いして、凄い方で尊敬しています。
3月に一時帰国しますが、できれば原爆で倒れ、京都で亡くなられたラザク先生のご友人のお墓参りをしたいと考えています。
ご存知かもしれませんが、Gombak には ラザク先生の墓地があります。その近所の先生の実家でよく食事したものです。
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