2017年5月9日火曜日

シーク教研究2

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「シク教」の書評を続ける。シーク教の聖典・グルグラントの最初の3語について、昨日エントリーしたが、この3語から始まる一節を「ムール・マントラ」と呼ぶ。これがシーク教の核心である。ただし、原典のパンジャブ語では、文章としては書かれておらず、独立したいくつかの単語と図によって表現されている。シーク教の形而上学、存在と真理の性質、個人存在と大宇宙の関係性を表現したものであるらしい。特別の美しさと力をもった祈りの一部分でもあり、シーク教徒が毎朝詠唱する38偈からなる聖歌ジャブの前に掲げられている。

Ⅰkk Oan Kar    sat nam    karta purakh    nir hhau    nir vair   akal murat    ajuni  sailbhang    gur prasad

…翻訳することがかなり難しく、様々な訳があるらしい。およそ、最初の3語について昨日記したような内容であるので、重複をさけたい。ところで、同じインドのヒンドゥー教との相違という点で言うと、神の化身や権化という概念を否定している。

「(ヒンドゥー教の)無数の神々は(シーク教の)唯一なるものからすると塵のようなものである。」というのが初代グルのグル=ナーナクの言。「何百万もの維持神ヴィシュヌを創造し、何百万もの大宇宙を生み出し、何百万ものや破壊神シヴァを育て、そして融合した。」とグルグラントにあるという。と、書くと、ヒンドゥー教と対立しているように見えるが、前述のグル=ナーナクは、彼らの信奉する宗教を捨てよとは決して言わなかった。反対にそれぞれを認め合い、できるだけ在るがままにいよと述べていた。ヒンドゥー教徒には彼らが真のヒンドゥー教徒であるように、イスラム教徒には彼らが真のイスラム教徒であることを望んだ。唯一なる絶対真理はとは、あらゆる宗教や文化に属する人々に共通するものなのである。

…シーク教を一神教と規定するのは、このような面から、正確ではないと私は思う。昨日の繰り返しになるが、やはり、仏教の「法」の概念が最も近いような気がするのだ。

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