もう少し前になるが、4月29日にシーク教徒のフェスタがKLCCで行われた。(上記画像参照)行きたかったのだけれど都合がつかずあきらめた。本当はこれに参加して、シーク教の本(シリーズ世界の宗教・シク教/N・Gコウル・シング著)を読んでの書評を書こうと思っていたりしたのだが、ずるずると先延ばしになってしまったのだった。
1月の終わりにチャウキットのシーク教寺院に行って以来、この本を読んでシーク教に対する興味を深めてきた。今日はまず、シーク教の原理についてエントリーしたい。シーク教は、「唯一なるものが存在し、真理こそがその御名である。その絶対真理である唯一なるものを信じ、そこから宇宙が形成され存在し続けている。」と考えている。一神教のようだが、自分たちの姿をモデルにした神のように具象化しない。物質的な形態もなく、見ることもできず、絵や像として視覚で捉えることもできない。時間と空間を超越しているものである。しかもそれは、他の全ての神や信仰を包み込むものとされる。
聖典グルグラントは、「1」という数字で始まる。”Ⅰkk Oan Kar”(イク・オンカール:唯一なるものが存在する)という言葉(Ⅰはローマ数字の1)は、言語的かつ視覚的な言葉である。1という数字は言語の壁を超越するものであり、あらゆる文化的背景を有する人にも理解できるものであり、誰もが見ることができるものであり、簡潔で普遍的なものである。Ⅰkkは、唯一性を表す。Oanは真理。サンスクリット語のオーム(あまりいい例とは言えないが、オウム真理教のオウムである。)と同一である。第三の単語karはのシンボルは終わりなきアーチであり、無始無終の唯一なるものの永遠性を表す。この”Ⅰkk Oan Kar”は、キリスト教の十字架のような中心的シンボルでもあり、1430ページにおよぶグルグラントの最初の言葉であり、同時にこの3つの単語を敷衍(ふえん)させたものである。
グルグラントには歴史的記述はない。いかなる教義も提供しない。それは行動に関する戒律や義務も規定していない。精神的に昇華された詩だけからできあがっている。
…こう書いてしまうと、わかりにくいが、少なくとも一神教のユダヤ教やキリスト教、イスラム教とも、多神教のヒンドゥー教徒も異なる。どちらかというと仏教の「法」の概念に近い。ただ、仏教のような精緻な理論的体系はない。純粋に、その宗教的原理を突き詰めていくとこういう話になってしまう。シーク教の面白さは、10人のグルの話や、彼らの宗教的生活にあるように思うのだ。この本の書評、簡単に終わりそうにない。(笑)
2017年5月8日月曜日
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