内田樹先生の文庫本・「レヴィナスと愛の現象学」を読んでいる。これがなかなか面白い。冒頭、内田先生とレヴィナスの師弟関係について、わりと長々と、タルムードの読み方という視点から詳細に述べられている。これも実に新鮮で面白かった。
「認識するとは暴露し、命名し、それによって分類することである。パロールは1つの顔に向けては発せられる。認識とは対象をつかむことである。所有するとは存在を傷つけぬようにしながらその自立性を否定することである。所有は被所有物を否定しつつ生きながらえさせる。だが、顔は侵犯不能である。人間の身体のうちもっとも裸な器官である眼は、絶対的に無防備でありながら、所有されるこに対して絶対的な抵抗を示す。この絶対的抵抗のなかに、殺害者を誘惑するもの-絶対的否定への誘惑-が読み取られる、。他者とは殺害の誘惑をかき立てられる唯一の存在である。殺したい、しかし殺すことができない。これが顔のヴィジョンそのものを構成する。顔を見ること、それはすでに「汝殺すなかれ」の戒律に従うことである。そして「汝殺すなかれ」に従うことは「社会正義」の何たるかを理解することである。そして不可視のものたる神から私が聴きうることのすべては、このただ一つの同じ声を経由して私のもとに届いたはずなのである。」
この文章は、内田先生が初めて読んだレヴィナスの9ページ目であり、弟子のなるきっかけとなった文章でもある。いったい、この人は何が言いたいのだろう。世の中には「難解だけれど、分からなくても別に困らない」種類の難解さと、「難解だけれども、早急に何とかしたい気がする」種類の難解さがある。内田先生は後者の気分になったのだ、という。
リトアニア生まれのユダヤ人で、ドイツの現象学と存在論についてタルムードの弁証法を駆使して、フランス語で批判的著述を行っているひと、それがレヴィナスである。
内田先生は、「レヴィナス効果」と呼ばれる、彼の思想に引き込まれていくことに関して、次のように述べている。今日のエントリーはここまでとしたい。
「レヴィナスはタルムードの文体を範例として彼のテクストを書いている。彼のテクストにおける読みの開放性・複数性は、意図的に工作されたものである。彼はあえて一義的な解釈が成立しにくいように書いている。その難解さと曖昧さは戦略的に選び取られたものであり、デイヴィスが言うように”レヴィナスのとらえどころのなさは、彼のエクリチュールと思考の本質なのである。”」
2016年7月7日木曜日
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