2016年7月12日火曜日

レヴィナスと愛の現象学を読むⅡ

タルムード:http://www.tabletmag.com/scroll/196121/new-york-
businessman-leon-black-buy-bomberg-babylonian-talmud-for-9-3-million
内田樹先生の「レヴィナスと愛の現象学」を読んでいる。と、いっても第1章がやっと終わったところだ。難解な書物なので、とても書評などという代物ではないのだけれど強く印象に残ったことを書いてみたい。

「(レヴィナスが行うところの)タルムード的対話においては、ラビたちが口にしたすべての異論は併記される。一度でも思考されたものは記憶にとどめられなければならない。そこでめざされているのは、ラビたちの合意による議論の終結ではなく、豊かな異論の湧出による議論の継続である、というのはラビたち一人一人が、それぞれにユニークな仕方で「啓示」を聴き取っているからだ。」

実は、私はこの一節に大きな引っ掛かりを受けたのである。中田考先生の「クルアーンを読む」と合わせて考えている。イスラムの法学者は、クルアーンやハディースを同様に解釈するが、少数意見も合わせて記録されることが書かれている。このあたり、タルムードに対するラビとよく似たスタンスである。

私の浅い一神教の学識では、似ている、としか表現のしようがない。両者の差異についても知りたいのだが、イスラムの方がよりシンプルなように感じる。(両書を読み比べて)そう感じる、だけである。だが、こういう似ている、という発見だけでも十分なくらい重要な事のように感じているのである。

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