2015年12月9日水曜日

ヒトラーに抵抗した人々を読む。

先日から「ヒトラーに抵抗した人々」(中公新書:對馬達雄著/本年11月25日発行)を読んでいる。だいぶ前、日本史演習の授業で、WWⅡでの日独伊の三国の相違を講じていて、日本では戦争遂行にあっていた軍部への批判的な直接行動(柔道家・木村政彦の師牛島辰熊の暗殺計画があったらしいが…。)はほとんど見られなかったが、イタリアでは、ムッソリーニがパルチザンの手によって逮捕され吊るされた。またナチス=ドイツでは、ヒトラー暗殺が実行されたが失敗に終わったことを教えた。そのあたりの事情を少し詳細に知りたかったのである。ほぼ読み終えかけだ時点で、どうしてこの本の中でエントリーしておきたいことがあった。それは、一昨日からのエントリーの延長線上にある「現代世界への不安」である。

ナチス=ドイツ下で、抵抗した市民には、白バラグループ、エミールおじさん、クライザウ・サークルなど、ホロコーストに反対し、ユダヤ人救援ネットワークを形成した組織があり、軍部の中でこれに呼応する貴族の将校たちも絡んでいる。ヒトラー暗殺の実際の動きは、最近映画になったゲオルグ・エルザーの事件、7月20日事件が挙げられる。だが、今日のエントリーで記しておきたいのは、このような歴史的事実ではない。

軍部と連携しながらクーデターを計画した知識人のグループ、クライザウ・サークルは、その後のドイツについて、真剣な討議が行われている。この『構想』の最大の特徴は、ワイマール政の復興を否定していることである。本来ワイマール民主政の支持者であった故にナチの台頭に反対したメンバーなのだが、人権と自由を放棄して熱狂してヒトラー独裁が受け入れられた事実を目の当たりにして深い幻滅を味わう。しかもナチ体制のもたらした同胞の精神的荒廃という事態が追い打ちをかけた故である。彼らは、民主主義のプログラムをもって戦後の再建を始めても、機能しないばかりか、第二のヒトラーが現れるという危険性を考慮していた。したがって、完全比例代表制の普通選挙を否定、地方自治の原則を前提に、町村や郡レベルは直接選挙だが、戸主の優先選挙権を認めたり、州議会選挙は間接選挙、国会議員も各州議会による間接選挙をとり、議院内閣制を想定していない。これは、形式的な民主政を排してドイツを段階的に再建しようとした案であった。この案が戦後の西ドイツのボン基本法へと繋がっていく。ヒトラーに全てを委ねるという全権委任法制定の意味が理解できないような広範な人民をただちに自分たちの政治的運命を変える議論に参加させられないと思ったからだという、西独のシンクタンクの専務理事の言もある。

現代史の中で、デモクラシーは、常に大衆煽動にさらされ容易に衆愚政治に陥るか独裁制さえ引き出す危険なもの、条件付きで有効に機能するものであると、クライザウ・サークルのメンバーは身を持って悟った。ここで言う条件つきとは、外形ではなく人間である。これについて戦後西独ケルン大学のハンス・ペーターズは、一言で述べている。『民主主義者なくして民主政治は存在しない。』

…こうして見ると、ドイツでは、ヨーロッパの社会類型で示される『(領邦国家以来権力をもっていた)自由な個人(である貴族や知識人階級)』が、「不自由な共同体(であった農民や労働者など一般国民)」のもつ政治的権利を再構築する必要があったというふうに受け取れる。ヨーロッパの近現代の民主政治史は、まさにこの階級の問題をいかに超克するかという課題を常に内在していた。ドイツは、やはり近代化が遅れ、手痛い大きな失敗をしてしまったといえるわけだ。

…同時に、WWⅡ以後西側諸国の覇者となったアメリカの国是「明白な天命」(自由と民主主義を世界に拡大する)には、当然ながら各国において、相当な時間が必要だという当たり前のことを強く再認識する必要があるということだ。民主主義は、ある意味、大きな危険が潜んでいる。アラブの春を軽率にも軍事的にも応援した欧米の選択を批判するジェフリー・サックス氏の批判は当然正しい。民主主義者なくして民主政治は存在しない。この言のもつ意味は深い。

…トランプ氏の超反知性的発言やフランスのFNの伸張、近代化の逆走など「現代世界の不安」をかかえながら、こんなコトをこのところ考えているのである。

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