2013年1月24日木曜日

暴力的言語装置としての『聖職』

聖職の碑
昨日、NHKの9時のニュースで、埼玉県の公務員の早期退職について報道していた。2月に退職しないと150万円ほど退職金が減額されるらしい。それで年度末を前にして退職する公務員が多かったと言う話だ。で、その中に多くの教員が含まれているという。

その件に対して、キャスターが『聖職』というコトバを使い、批判していた。中には学級担任をしている教員も含まれていた。児童生徒を放りだすような、そんな早期退職をしてよいのかと言いたかったのだろう。

この『聖職』というコトバ、久しぶりに耳にした気がする。私自身は自分の仕事を『聖職』だと考えているか否か?当然私は聖人君子ではない、元品の無明の凡夫である。間違いを犯すこともあるし、ベテランとはいえ不完全な存在である。だが、『聖職』についているという意識(矜持)は絶対失いたくはない。同時に自分から『聖職』についているというふう(傲慢)に口にはしたくない。だから、「先生」と言う自称(一人称)は恥ずかしいし、使わない。

すなわち『聖職』か否か?に対しては私は「空」なのだ、としか言いようがない。そもそも『聖職』というコトバは、複雑なのである。『聖職』の主体が、このように思索し、逡巡するのに、マスコミは教員の存在批判の装置として有効だと簡単にこのコトバを使うようだ。「聖職者が犯罪を犯した」というふうに。

正直、やりきれない。こんな時だけ『聖職』扱いなのだ。もちろん、私が同様の立場なら生徒を放って早期退職などできない。スローガンとして『責任ある行動』を我がクラスの黒板の上に掲げる私が、そんなことが出来るわけがない。ソクラテスよろしく毒杯を仰ぐしかないではないか。太った豚でありたくない。

埼玉県の教員にはいろんな理由があるのだろう。それを否定はしない。だが、彼らは「教員」、いや「教育公務員」であって、「教師」ではない、ましてや「教育者」ではない。NHKも『聖職』などという暴力的な言語装置は使わず、そういうふうに立て分けてもらえないものだろうか。

そんな強弁をはる私も、到底『聖職』に伴う「矜持」は、大阪の不思議な政策で、後退を余儀なくされている。(労働:あまり好きな言い回しではないが)環境は、極度に管理化され、余裕だけが喪失していっている。『聖職』というコトバを使うならば、こういう『聖職』たりえない側面をも理解した上で使用すべきではないかと私は思うのである。

『聖職』というコトバが暴力的な言語装置ではなく、本来の意味で使用されるようになることは、これからあるのだろうか。また若い先生方が、このような矜持を持てるのだろうか。教育の未来にとって、何よりの重大事だと私は思うのだが…。

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