2024年10月31日木曜日

Wシリーズ 大逆転で優勝

https://news.yahoo.co.jp/articles/0e1477bb885410778c97fe767c05301847de0f72/images/000
ドジャーズが、5点差をヤンキースにつけられながら、逆転(7-6)で4勝1敗で優勝した。全くすごい展開である。我が大谷選手は、あまり活躍できなかったけれど、キケ選手やベッツ選手らがその分を補ってくれ、ワールドシリーズMVPにはフリーマン選手が選ばれた。

かの1番。2番・3番のMVPトリオは、大谷選手の一平スキャンダルや邸宅問題から始まり、ベッツ選手の死球離脱、フリーマン選手の子どもの問題や足の捻挫、最後には大谷選手の亜脱臼と様々な苦難を乗り越えての優勝となったわけだ。山本由伸投手も一時離脱しているし…。

MLBのレギュラーシーズンは過酷で、精神的にも肉体的にもタフでないと生き抜けない。さらにその後のポストシーズンもさらに過酷だ。ヒリヒリするという大谷投手の表現は今回よくわかった。

正直なところ、大谷選手は、ポストシーズンは初体験で、レギュラーシーズンほど活躍できなかったけれど、これでWBCみたいに大活躍して優勝、とならなかったことを私は良しとしている。なぜなら「さらなる高み」を個人的に残したから、である。あまりの出来杉君は良くない。(笑)昨日書いたが、ポストシーズンでは、成績で結果は残せなかったが、チームの結束にはかなりの力量を発揮している。今回は、陰の功労者で良しとすべきだ。誰にでもできることではない。

まずは、ゆっくりと体を休めてもらって、二刀流の復活を期待したいと思う。ご苦労さま、大谷選手とドジャーズの面々。

2024年10月30日水曜日

Wシリーズ 大谷選手の価値

https://news.yahoo.co.jp/articles/b7414c58cdc246faa0666d074919f0411cbb2f8a
Wシリーズは、ドジャーズが3連勝して、今日優勝かと思いきや、さすがにヤンキースが最悪の結果を止めた。第2戦終盤で、大谷選手が盗塁に失敗し、左肩を亜脱臼したが、検査後、ニューヨークにやってきて第三戦・第四戦と出場している。打撃成績はレギュラーシーズンと比べるとイマイチではあるが、彼がチームにいる事自体が、ドジャーズにとって大きな価値があるようだ。

ドジャーズには、選手だけのSNSが存在しており、検査後の大谷選手からのメッセージに、皆感激したらしい。その内容は明かされていないが遅れてニューヨークに駆けつけるという内容だったのは間違いない。成績以上に、大谷選手の人柄が愛されており、チームのまとまりに大きく貢献しているようだ。第三戦では、1回に四球で出た大谷選手を、フリーマンが2ランホームランで返した。ベッツも同様に大谷選手の後を受けて適時打を放った。他の選手も同様に奮闘している。今日の第四戦では、大谷選手はなんとかセンター前ヒットを打ってくれて、負けたとはいえホッとした。

MLBでは、こういう選手のまとまりは、決して当たり前ではないらしい。個人主義の競争社会であるからだが、大谷選手の価値は、成績だけでなく、自然とまとまりを作っていくところにもあるようだ。なんとも凄い選手である。あと一勝。明日はヤンキースOBのマツイ選手が始球式をやるらしい。

2024年10月28日月曜日

ピエタ 悲しみの聖母

https://artmuseum.jpn.org/profilemichelangelo.html
ピエタは「哀悼」「敬虔」「慈悲」などの意味を持つイタリア語である。「名画で見る聖書の世界<新約編>」(西岡文彦/講談社)の書評の続きである。ピエタといえば、バチカンにあるミケランジェロのピエタの大理石像が超有名である。24歳の時の作品だと言うから驚きである。おそらくは、史上最高の彫像であると私は異教徒ながら思う。イエスの肉体の描写もうっすらと静脈が浮き出しており、大理石を削って作られたとは思えないほどであるらしい。

ただ、このピエタ像には大きな2つの虚構があるそうだ。一つは聖母の年齢。若すぎるのである。制作当時にも批判があったらしいが、天才・ミケランジェロは「貞操なる女性は、不貞な女性よりはるかに長く若さを保てることをご存じないのか。」と切り返したという。それまでのピエタは、老いた聖母が傷だらけのイエスを抱きかかえ、『受難の悲惨さ』を訴えるものだったのだが、ミケランジェロのピエタは、『過酷な運命を耐え忍ぶ姿への礼賛』に変貌させたわけだ。もう一つは、聖母の身長。座った姿勢でこれだけの高さなら、立ち上がったらゆうにイエスの二倍になる。だが、見た目は極めて自然で、ピラミッド型の安定感がありいささかも不自然な印象を抱かせない。「定規を手に持ってはいけない。目に持つことが大切だ。」というのが、天才・ミケランジェロの言葉であるそうな。妙に納得してしまう。(笑)

https://galleryhopping.livedoor.blog/archives/31186452.html
ピエタを題材にした絵画も、中世以来数多く描かれているのだが、この書の図板の中で最も強烈な印象を受けたのが、マンテーニャ「死せるキリスト」である。短縮法で足の方から眺めた姿で、左側に聖母と弟子のヨハネが見えるが、この作品の主題は、唯一正面を向いている「手の甲と足の裏の聖痕」である。なかなか強烈な隠れた名画であると思う。

2024年10月27日日曜日

磔刑図のあれこれ

https://taesunworld.com/grunewald/
「名画で見る聖書の世界<新約編>」(西岡文彦/講談社)イエスの磔刑図の話、続編である。アッシジの聖フランシスコ以来、磔刑図は『苦悩するキリスト』となり、その中でも無類の迫力を誇るのが、グリューネヴァルトの作品(上記画像)である。肌には、ムチ打ちの傷、さらに茨のトゲが突き刺さっている。イエスの処刑時間は昼間だが、聖書にはイエスの絶命の瞬間、太陽が隠れ大地が闇に包まれたとあるからで背景は闇である。

白い衣で手を合わせているのが聖母。倒れそうな聖母を支えているのが、聖母のことを託された弟子のヨハネ。ひざまずいて祈っているのが、マグラダのマリア。アトリピュートは香油の壺で、足元にある。彼らの反対側に立っているのは、洗礼者・聖ヨハネで、「彼は必ず栄え、私は衰えなくてはならない」と聖書も文字が書かれており、復活を意味している。

https://www.tabitobijutsukan.com/
『フランダースの犬』で、主人公の少年が最後に見たのは、アントワープ聖母大聖堂のリューベンスの「十字架昇架」(画像左)「十字架降架」(画像右)である。画家を目指していた少年の憧れである。

無数にある磔刑図の中で、私の好みを最後に付け加えておきたい。それは、ダリの磔刑図である。

https://blog.goo.ne.jp/shysweeper/e/
dd3ef0e8414a14260032de89b26a84a9
「十字架の聖ヨハネのキリスト」この作品は、上から見るという実に珍しい構図で、しかも釘で手足を打ちつけるといった聖書のの記述を無視している。逆三角形に見える部分は、三位一体の図を表しているという評もある。下部に拡がる光景は、例によってポルトリガトである。この作品は、宗教画ではないような気がする。磔刑をモチーフにした美の追求ではないだろうか。

ダリには、これ以外にも、「超立方体的人体(磔刑)」という作品がある。シュールリアリズムから、原子力へと興味を移した時代の作品で、カトリックと数学と科学、カタルーニャの土着文化をごちゃまぜにした「原子力芸術論」を発表。さらに、スペインの建築家の立方体理論をもとに、妻のサラを聖母のモデルにしたてて、磔刑図を描いたのだが、かなり奇妙なものになっている。よろしければ検索してみていただけたらと思う。

2024年10月26日土曜日

アッシジの聖フランシスコ

https://antiquesanastasia.com/
religion/references/jesus/les_trois_
types_de_crucifix/general_info.html
「名画で見る聖書の世界<新約編>」(西岡文彦/講談社)の書評もイエスの磔刑図の話まできた。中世画の磔刑図ではイエスは『勝利のキリスト』として、苦痛や苦悩を超越した表情を見せているのだが、13世紀に入ると、表情が変わり『苦悩のキリスト』となる。右図は、それ以前の『勝利のキリスト』である。我々が目にすることが多いのは、『苦悩のキリスト』の方が圧倒的に多い。この変化に関わっているとされるのが、表題のアッシジの聖フランシスコである。

このアッシジの聖フランシスコは有名で、学院の3年生が宗教に時間に習っている。宗教科の先生との話の中で、彼の話が出たので印象に残っているのである。

12世紀末、イタリア中部のアッシジの裕福な織物商の出で、騎士になろうとしたところ病に倒れ、「家に帰りなさい。あなたのなすべきことはそこで知らされる。」という聖霊を受け信仰の道に入る。貧者や病人の世話をしていた彼が荒れ果てた聖堂で祈っていた折に、「私の家を立て直しなさい。」との聖霊を受け、実家の織物を持ち出し金に換え、父に訴えられ、法廷に召喚された彼は、その場で衣服を脱ぎ、所持金とともに差し出し「これからは天の父のみを我が父と呼ぶ。」と宣言、清貧を旨とする修道士の生活に入る。聖堂は、自ら石を積み上げて再建。彼を慕って集まった弟子と「フランシスコ会」を結成、法王は、あまりの会則のきびしさに認可をためらったと言われる。

https://note.com/meiga_
yazawa/n/n4b2d7d177e56

熱烈な信仰で、祈りの際にイエスが十字架で受けた同じ傷が彼の体に生じ、信仰の証となったと言われている。(左の画像は、ルーブル美術館にあるジオットの作品)彼の説教には、鳥も耳を傾けたというエピソードもあり、イエスの受難について語る際も、かつてないほどの人間的な苦悩は強調され、人々の心を動かしたようだ。この結果、磔刑図は、苦悩の表情が描かれるようになったわけだ。アッシジの聖フランシスコの影響は大きい。

それどころか、聖痕(特に、手足を十字架に釘付けされた傷、さらには茨の冠のドゲが刺さった後、むち打ちされた傷跡など)は、磔刑図にリアルに表現されるようになる。このイエスの磔刑図については、もう少し詳しく記していたいと思う次第。…つづく。

2024年10月25日金曜日

マルちゃんの塩焼きそば

先日、妻が『さまーず』のYouTube(いろんなジャンルの食品を食べ比べするという極めて安易な番組である。笑)を見ていて、マルちゃんの塩焼きそばが、かなり美味しいらしいと教えてくれた。私は、そもそも焼きそばが好きであるのだが、歳をとったのか、ソースより塩味の方が最近は好みである。と、いうわけでスーパーで購入した。妻は、私から言うのもなんだが、料理がうまい。サササッと野菜や肉と共に炒めて作ってくれた。

確かに美味い。問題は一袋3人前なので、夫婦2人では、必ず1人前あまる。というわけで、先日買い足しておいて、結局1周間で2回も食することになった。次はいつ出てくるか楽しみである。

このところ、ブログでは、哲学や宗教学の硬い話題が多かったので、ふっと柔らかい話題にしてみた。

2024年10月24日木曜日

落語的授業 「ガ」な人

https://afri-quest.com/archives/7372
世界の言語に関する授業での話である。 最近はパワーポイントを使うことが多く、いわゆる落語的な話術で勝負する機会がめっきり減ったのだが、今日はジンバブエでの話で盛り上がった。

ジンバブエは当時、ムガベ大統領の白人(農園主)追放で、経済が混乱していた。ハイパーインフレになる少し前に私は行ったのだが、帰路の南ア行きの夜行バスで、隣席のスーツを着た人物と、ムガベの政策をどう思うか聞いた。彼はビジネスマンらしく、「白人を追放するべきではなかった。ジンバブエの経済は崩壊寸前だ。」と言っていた。ちょうど斜め前に民族衣装を着た人物がいて、私たちの会話に入ってきた。「ムガベの政策は正しい。君はアフリカ人としての誇りはないのか。」と喧嘩を売ってきたのだ。英語での会話であり、ここまではなんとかついていけたのだが、民族衣装君が、「君は何処から来た?」と聞いた。「ガーナだ。」とスーツ君は答えた。「なんだ同胞ではないか。どこの人間(エスニック・グループ)だ?」「ガ(民族)だ、」「何?俺もガだ。」と、ここからは、『ガ語』による会話に変化したのだ。ガ―、ガ―・ガ―。私には全く理解できない会話であったのだが、だんだん英語の単語が混じってきた。そして英語の会話に戻った。『ガ語』にはない語彙(財政とか、融資とか、生産性とかいった語彙)については、ガーナの公用語である英語を使わないと自分の意見を語れないのだった。

ケニアでも、各民族語やスワヒリ語の語彙だけでは、中等教育以降はできないので、全て英語での授業となる。おそらくマレー語でも、英語の語彙を借りずに高等教育はできないのであろう。途上国における言語は、こういうカタチをとらざるをえないというオチである。まあ、最近は日本でも妙に長いカタカナ語(アドミッション・ポリシーなど)が挿入されているが…。(笑)ちなみに今日の画像は、ガーナの民族衣装。喧嘩を売ってきた『ガ』の民族衣装君に敬意を表して…。

2024年10月23日水曜日

「キリストの嘲弄」

https://www.meisterdrucke.jp/artist/%C3%89douard-Manet/4.html
久しぶりに、 「名画で見る聖書の世界<新約編>」(西岡文彦/講談社)の書評の続きを記したい。イエスの受難のところである。逮捕にあたったのは、ローマの兵士ではなく、神殿付きのユダヤの官吏で、逮捕理由は神殿に対する不敬、旧約の律法の冒涜などであった。まず大祭司カヤバの家に連れて行かれる。ここはユダヤ法院も兼ねていたのである。ここで嘲弄され、死刑判決が出る。(画像は)マネの「キリストの嘲弄」)とはいえ、ユダヤ法院には死刑を執行する権限がなかったので、ローマ総督ポンテオ・ピラトの家に連行される。

妻からも「あの義人には関わらぬように」との伝言を受けていたピラトはイエスの助命を試みる。死刑にするほどの理由が見つからなかったからである。しかし、取り囲んだ民衆の声に押され、「この人の血について、私には責任がない。お前たちが自分で始末するがよい。」と言い、手を洗うのである。マタイの福音書には、有名なイエスの血の責任を子孫の代まで引き受けるという記述があるが、残る福音書もローマ当局ではなくユダヤ側が死刑を要求した点では一致している。ユダヤ人迫害の根拠とされているが、そもそもイエスもユダヤ人であるし、後にローマ帝国がキリスト教を国教化するわけで、私のような異教徒の第三者は、どうも後世の微妙な忖度を感じてしまうわけだ。だから、何だと言われると困るのだが…。

2024年10月22日火曜日

於南ア/ドイツ語とフラマン語

https://note.com/hakentaro/n/n7ee0d507d870
学院・T大G高校の授業で今日、こんな話をした。南ア・プレトリア(上記画像はプレトリア大学構内)のゲストハウスでのちょっとした私のおせっかいの話である。

なかなかジンバブエ行きのバスのチケットが取れないので、仕方なく英語の漫画本(近くの書店で売っていた)を、電子辞書片手に読んでいると、ドイツ人の赤毛の小学校の先生だという女性が、「隣りに座ってもいい?」と聞いてきた。「どうぞ。」と言うと、「あなたは何処から来たの?」と聞かれ、日本人だとわかると喜んでくれた。日本に行ったこともあるらしい。「あなたは英語がどれくらい喋れる?」と聞かれたので「少しだけ」と答えると、「やっぱり。」と、さらに喜んでくれた。彼女は、どう見てもゲルマン系なので、周囲の客が苦手な英語でバンバン話しかけられ辟易としていたそうで、私くらいのスピーカーがちょうど安心できるのだったのだ。(笑)互いにつたない英語で話をしたのだった。

さて、その前にアパルトヘイト博物館のツアーに行った時、知り合いになったベルギー人母娘がいた。彼女らはダイアモンドで有名なアントウェルペン(=アントワープ)から来ていたフラマン人だった。ベルギーのフラマン人はオランダ語、南部のワロン人はフランス語を話すので、仲が良くない。地理や政経で必ず教える民族(=言語)問題なので、私にはそういう知識があったのだ。

さて、このドイツ人女性もベルギーの母娘も、同じ日に出発のクルーガー国立公園ツアーに参加すると聞いていた。夕食時、ちょうど彼女ら3人がそろっていたので、私は英語の苦手なドイツ人女性をフランマン人の母娘に紹介した。これには理由がある。ゲルマン系の言語で、ドイツ語と英語の中間に位置する言語がオランダ語だからだ。

福沢諭吉が、適塾で蘭学を修めながら、新しい時代はイギリスやアメリカの英語だと語学をやり直すのだが、中学生の頃は凄い勉強家だと思っていた。いやいや何のことはない、オランダ語と英語は実に近いのである。英語のThank youは、ドイツ語ではDankeである。オランダ語ではDank Uとなる。(笑)

フラマン人のオランダ語とドイツ人のドイツ語は、少なくとも英語を介さずともすむはずである。ドイツ人女性は、この私のおせっかいに、すごく喜んでくれた。という話である。地理の知識があればこその逸話である。ちなみに、このドイツ人女性は、日本びいきで、次はイタリア抜きでやりましょう。となにやら物騒なことも言っていたのだった。(笑)

2024年10月20日日曜日

高校野球秋季大会の残念

https://www.kobe-np.co.jp/news/sports/koya/news/202410/0018249948.shtml
秋田商業高校と学園がそれぞれ、東北大会、近畿大会に勝ち進んでくれていた。残念ながら、秋田商業は大谷翔平選手の出身校・花巻東高校に、学園は市立和歌山高校にそれぞれ一回戦で負けてしまった。センバツ出場は厳しそうである。しかしながら、東北大会・近畿大会出場の結果を残してくれたことに感謝したいと思う。2年生主体のチーム故、この古豪二校の来夏を楽しみにしたいと思う。

マンデラの「ウプントゥ」2

https://ameblo.jp/yueki09/entry-12051937568.html
「アフリカ哲学全史」(河野哲也著/ちくま新書)の第10章の冒頭で、著者はこう記している。人種差別の根底にある構造的暴力を改変し、そこから生じた人々の分断と亀裂を修復することは、哲学の重要な責務である。というのは、セゼールが「植民地主義論」で指摘した(10月1日付ブログ参照)ように、人種主義とは、キリスト教=文明、異教=野蛮、白人=優越種、有色人種=劣等種という図式を立て、植民地支配を正当化しようとする。何よりも思想的な営みだからである。思想は哲学によってのみ改変されるはずである。この西洋の堕落を治癒できるのは、抑圧者である白人の反省と改心ではなく、被抑圧者からの「赦し」のみである。

本書では、前述の「真実和解委員会」についてさらに詳細に述べられているのだが、ここでは、その基本的哲学である「ウプントゥ」について見ていきたい。「ウプントゥ」という用語は、アフリカ中南部で話されるパントゥ諸語に共通して見られる言葉で、端的に日本語に訳すと「人間性」「人格性」となる。南アフリカでは、ングニ系諸語(コーサ・ズールー・ンデベレ・スワジ)では「ウプントゥ」と呼ばれ、ソト系諸語(ペディ・ソト・ツワナ)では「ポト」が同義語とされる。ただし、この概念を他の言語におきかえてしまうと、そこに含まれるサブ・サハラの人々の人間観が抜け落ちてしまう。パントゥ語で「あの人はウプントゥを持っている。」という表現が頻繁に使われる。それは、その人が他の人間を気遣い、配慮に満ちた、寛容でホスピタリテイのある優しい気持ちを持ち、社会における義務に忠実な人であることを意味している.

ウプントゥは、人間の集団としての絆を強調するが、そこには人類を家族とみなす人間観が含まれる。伝統的な概念であるが、汎アフリカ主義運動が勃興してくる19世紀中頃から、西洋の人間観・自己観に対抗するカタチで打ち鍛えられてきた。このアフリカの人間観は、個人主義的、利己的、独我論的、競争的、相克的な西洋の近代人間観と対比され、批判的な視点となる。誤解してならないのは、ウプントゥは共同体を重視するとはいえ、個人よりも共同体を優先させる全体主義的な発想には立たない。

…ウプントゥは、和辻哲郎の「間柄的存在」に近いものを感じる。日本の倫理観とは少し異なるが、日本人にとっては、十分に理解可能であろうと思われる。ケニアで、初代大統領のジョモ・ケニヤッタ以来、「ハランべ―」という助け合いが強調されてきたことを学んだ。共同体の中の優秀な子どもを留学させるために、多くのハランべ―が行われたと聞く。当然留学する子どもはその恩を忘れないし、共同体に貢献することになる。情の経済と言われる、善くも悪しくもあるシステムであるのだが、こういうこれまでのアフリカの知識が、さらに理解を容易なものにしてくれるのである。…つづく。

2024年10月19日土曜日

マンデラの「ウプントゥ」1

https://clubt.jp/31606
/302128/26470770
反アパルトヘイトの代表的人物であるマンデラの思想は、「ウブントゥ」である。人間は共同性を通して人間たりうるという人間性についてのアフリカの原理(=我らある故に我あり)こそが本来あるべき状態だという思想で、和解の推進力は、肌の色の「間」に存在し、マンデラが大統領就任演説で使った「虹の国」という表現に象徴されている。

「アフリカ哲学全史」(河野哲也著/ちくま新書)の第9章から第10章にかけて、マンデラの哲学が描かれている。マンデラは、アパルトヘイトが終結(1991年)し、全人種による選挙(1994年)後に「真実和解委員会」を設置した。この議長に聖公会大主教のツツを据えた。委員会は、人権蹂躙を行った人物と団体を訴追する一方で、人種間の対話と和解、赦しを訴えた。1990年の暫定憲法では、「過去の違法行為については、いまや復讐ではなく理解の必要性、報復ではなく補償の必要性、不当な犠牲ではなくウプントゥの必要性に基づいて処理することができる。」と書かれている。1995年から2000年まで、この委員会は活動を続け、政治犯罪を究明し、遺族に思いを述べる機会を与え、必要なら補償を行う。過去の責任を明確にして記録することが目的であった。「処罰より真実を」という方針で、白人の差別主義者側だけでなく、解放活動側の政治的暴力や内部抗争における暴力事件にも、同じ基準で真相の解明を行った。また委員会は、犯罪行為を殺人と拷問に、犠牲者を政治活動の闘士に限定した。加害者にはその犯罪行為の真実を証言した者に恩赦を与えた。この方針は、キリスト教的な伝統、すなわち懺悔と修復的司法の結合を感じさせる。

マンデラは、昨日記したように、逮捕前は武装闘争を計画・準備していた。1951年当時のマンデラが所属していたANC(アフリカ民族会議)では、マハトマ・ガンジーやM・L・キングの影響を受け、非暴力主義を掲げていたのだが、マンデラは道徳的原則からではなく、戦術面(非暴力の効果はあまりなかった故)から暴力闘争を選び、MKの司令官となったのである。マンデラの「和解と赦し」は、非暴力からの単純な帰結ではない。

…JICAの教員研修で、初めてのアフリカであるケニアを訪れた際、お世話になったコーディネーターの故ピーター・オルワ氏が、帰路のナイロビ空港で別れる時「レインボーだよ、レインボー!」と大声で叫んでいたのを思い出す。この”レインボー”は間違いなく、マンデラの「虹の国」を意味しており、「アフリカの未来は明るい。」という趣旨を込めて私たちに送られたメッセージだったと確信している。あれから20年以上のの月日が流れた。…つづく。

2024年10月18日金曜日

反アパルトヘイト ピコの哲学 

https://artsandculture.google.com/story/uwWBAo9exh4A8A?hl=ja
「アフリカ哲学全史」(河野哲也著/ちくま新書)の第9章は、アパルトヘイトについての内容である。ここで登場する主要人物は、当然ながらネルソン・マンデラであるが、パントゥ・スティーブン・ピコというマンデラが逮捕・27年間の収監中に、反アパルトヘイト闘争を行った人物である。

その中心的論題は、武装闘争の是非といってよい。マンデラは逮捕以前に、エチオピア、ザンビア、エジプト、チュニジア、モロッコ、アルジェリアを訪問し、アルジェリアが、アフリカ大陸最大の白人人口を抱えていたことに南アとの共通点を見出し、アルジェリアの独立に寄与した前述のファノン(10月6日付ブログ参照)の思想の影響もあったのだろう。1962年、エチオピアでMK(民族の槍)の3ヶ月の軍事訓練を行い、帰国直後に逮捕され、MKの存在が知られ国家反逆罪で終身刑となる。よって、マンデラは、当初武装闘争を考え、準備していたのである。

ファノンの影響を最も強く受けたのは、ピコである。彼は、ダーバンの大学医学部で学んでいた。この点でもファノンと共通性がある。彼はマンデラが投獄された1962年から1990年の間、南アの反植民地運動を牽引する中心人物で、南ア学生機構での演説で、「マーチン・ルーサー・キングと比較して私たちはマルコムX(公民権運動の急進派指導者)の説法を気迫のあるものと感じるし、はるかに私たちが考え感じていることに一致していると思う。」と述べている。ただし、1973年以降は彼は政治活動を禁じられ、ソウェト蜂起(1976年:中学高校でアフリカーンス語=オランダ系現地生まれの白人言語を強制されたことへの学生による暴動で500人以上の死者を出した。)を指導できなかったのだが、1977年彼の思想を恐れた治安当局は不当逮捕し、獄中の尋問によって脳挫傷となり搬送中に死亡した。(画像は葬儀の模様)

彼の思想で特徴的なのは、一見すると黒人の開放に好意的に思われる白人リベラルに対する強い不信と批判であった。彼は、「白人リベラルは、自分帯の権力欲に気づいてないふりをしている恥知らずである。」と述べており、「白人の最大の武器は、劣等感と恐怖を埋め込まれた黒人の心である。アフリカ人は学校で植民地主義的な教育を受け、自己の伝統を憎悪することを学び、劣った自己イメージを流し込まれている、」と強烈な批判をしている。

また、「ヘーゲルの弁証法に基づけば、テーゼ(正)は白人人種主義、それに匹敵するだけのアンチテーゼ(反)は黒人の強固な団結である。南アが白人による黒人に対する集団的搾取の恐れのない、両者が仲良く共存する国になるとすれば、それは、これらの二者の敵対者が影響を及ぼし合い、諸観念から実行可能なジンテーゼ(合)を創り出し、両者の妥協の帰結としての生活様式を創り出したときのみである。」と、奴隷と主人の弁証法は、奴隷を道具として見なしている以上、植民地的な現状では、そうした弁証法は全く存在しない、と指摘している。白人リベラルにとっては、テーゼがアパルトヘイト、アンチテーゼが非人種主義であるが、ジンテーゼは非常に曖昧な柔らかな人種主義に他ならないわけだ。

ピコは、マンデラ不在の間に、黒人意識を独自に展開し解放運動を牽引した。マンデラは、ピコの人生を回顧する著作に寄せた賛辞のなかで、「スティーブン(=ピコ)は南アの民主化に貢献した勇敢な指導者たちの銀河系の中で生き続けています。私は彼と会う機会はなかったが、刑務所から私たちは彼の功績を追い、黒人意識運動の勃興に寄り添っていました。」と功績を称えている。著者によれば、マンデラ自身を含め特定の個人崇拝にいたらないような配慮ある表現となっていると記されている。

…さすがマンデラである。さて次回は、反アパルトヘイトの哲学・後編で、マンデラの話になる。ところで、ソウェト蜂起の話が出てきたが、私は南ア・ヨハネスブルグ郊外のソウェト蜂起の博物館をゲストハウス主催のヨハネスブルグ・ツアー(アパルトヘイト博物館・黒人居住地のソウェト・呪術の店など)で訪れている。ソウェト蜂起のことは今回詳しく調べることになった。当時は不勉強で、展示も全て英語だったし、正直なところ、あまり印象に残っていない。ただ、最初に撃れて亡くなった子どもの場所には記念碑が立っていて、合掌したことだけは覚えている。

2024年10月17日木曜日

国境なき医師団の報告書

https://www.msf.or.jp/
かなり以前から、国境なき医師団(MSF)に毎月僅かな金額だが送金し、サポートしている。国際協力のNGOやNPOは数多いが、私の国境なき医師団への信頼は最も強い。本日、1年間の報告書的な「ACT!」が送られてきた。

ガザの紛争については、「”容赦なく落とされる爆弾” 空爆や地雷で負傷した大勢の子どもたちの救命を」とのタイトルで記事が載っていた。ガザだけでなく、地雷についてはイエメンやシリアの話が載っている。また難民キャンプでの活動としては、スーダンから批判してきたチャドでは「はしか」が蔓延しており予防接種をしているようだ。

日本からスタッフが派遣された国は、ウクライナ、タンザニア、ナイジェリア、ギリシアの4カ国を中心に35カ国。103人(のべ132回)のスタッフを派遣。ウクライナは言わずもがな。タンザニアは難民キャンプ、ナイジェリアは紛争に関わりのない重症患者支援、ギリシアは地中海をわたる難民船への緊急支援だそうである。

財務報告では、MSFの日本国内の総収入は130億円で、総支出は127.5億円。世界全体では€23.65(約3600億円)の収入、€23.09(約3514億円)の支出であったそうだ。国内・世界とも、私のような一般個人の寄付など民間からの寄付が多く(日本99.7%、世界98%)、支出においては約80%がソーシャルミッション費用(援助活動費・派遣・薬剤などの医療費)で、残りはマネジメントおよび一般管理費に使われている。妥当な財務状況だと思う。

教え子が医療関係ではないが、航空機関連の仕事をしていて、MSFの現地スタッフとして活躍してくれている。M高校時代のJICAの高校生セミナー参加者OB。それも私の誇りである。

2024年10月16日水曜日

グローバル化の教材研究

https://www.fourin.jp/report/STATISTICS_NENKAN_2022.html
中間考査の日である。考査の採点も重要だが、考査は3限目だったので、それまでは考査後の教材研究に勤しんでいた。2学期後半のテーマは、グローバル化に決めていた。まずはグローバル化の定義。地理総合の教科書では企業活動のグローバル化については比較的詳しく書かれている。と、いうわけでASEAN諸国の輸出額の多い品目を2024データブックを本にまとめてみた。Q&Aの問題として、このの表から読み取れる内容を聞く。答えは、多くのASEAN諸国が、機械類であること。これはサプライチェーン化していることを意味している。先進国や中国で製品として完成させるわけだが、この労働賃金の安価な地域で生産活動を行う企業の増加こそがグローバル化の象徴である。このメリット、デメリットもQ&Aに追加した。昔JICAのセミナーで、開発教育協会の小学校の先生が、この状況をデメリットだけを強調していて閉口したことがある。技術の習得や経営のノウハウなど途上国が経済的に成長する面を全く無視しており、私が開発経済学を本格的に学ぶきっかけとなったのだが…。もちろん国際競争力のため、コスト削減が先進国企業のメリットだが、途上国が経済発展とともに賃金も上昇し、第一次産業からの脱皮、第二次・第三次産業の就労人口が増えていくメリットもある。途上国のデメリットとして、低賃金労働を強いられる新植民地主義的な構造的暴力は無視できないのだが…。

次に、自動車産業の話に移る。G7や先進諸国の、同じく輸出額の多い品目を並べると、機械類とともに自動車が目に付く。実際には、エンジンを始め、純国産で自動車を生産できる国は、アメリカ・日本・ドイツのみ。純国産的生産(一部他国の部品が必要)なのは、英(ジェットエンジンについては世界最高峰なのに不思議だ。)、仏、伊、それにスウェーデンといったところ。韓国も日本企業のエンジンを積んでいる。これらのメーカーは有名なのでQ&Aにした。学院は男子の数より女子のほうが圧倒的に多いので、果たしてメーカーを挙げれるだろうか?不安なので、PowerPointで画像を見せることにした。(笑)その後、世界的な自動車生産台数を示すと、中国やメキシコ、インド、タイなどが食い込んでくる。これらは先進国の自動車メーカーの工場があり生産拠点となっているわけだ。これもグローバル化の象徴的な事実である。

ところで、このグローバル化、最近大きな変化が見られる。中国は国策としてEV車の生産を奨励し、雨後の筍のように多くの企業が補助金を受けて生産を開始した。EV車はガソリン車より技術がいらない故であるが、信じられないような過当競争を行い、付加価値や技術ではなくダンピングによる値下げ競争に突入してしまった。SDGsの環境重視のヨーロッパに安価な中国EV車が輸出攻勢をかけ、EUはたまらす高関税をかけている。この時、EU内でドイツは反対した。なぜなら、中国でVW(フォルクスワーゲン)などが生産を大々的に行っており、これらのVW車の高関税の対象となるからである。そこ影響は、VWの本社工場の閉鎖にまで発展し大騒ぎになっている。コロナ禍やウクライナ戦争の影響で経済が停滞しているヨーロッパに新たな中国EV禍が降り注いでいるわけである。

こういう事実を踏まえて、次にグローバル化の背景について語る。冷戦後のアメリカ一強とEUの結成、WWⅡの遠因となった保護貿易(英仏のブロック経済、ケインズの修正資本主義の米のニューディール、ケインズの有効需要を軍需におきかえた日独のファシズム)から自由貿易への変化、交通・通信などの発達も含めて説いていく予定である。

2024年10月15日火曜日

「パントゥ哲学」後編

https://webgenron.com/articles/article20240520_01
「アフリカ哲学全史」(河野哲也著/ちくま新書)の第8章、プラシード・タンベルの「パントゥ哲学」 の内容の記述・後編&書評。

パントゥの叡智は、認識する力は神から与えられた力であり、真の知識は形而上学的(=神との関係)であることの自覚からなっている。知恵と知識は、この存在=生命力についての知識に他ならない。祖先たちはこの知恵に従って生きてきたし、占いのカタチで叡智を伝えてきた。神話に基づく伝統や通過儀礼などの儀式は尊重される。

ムントゥは生命力であり、人格の力である。ムントゥは周囲に価値ある効果、すなわち生命力を増強させる効果を及ぼすが、弱まったり強まったりする。アフリカでは個人はムントゥを有し、最も親しい仲でも不可侵の存在とみなされる。個人としての条件は、可視的で身体を持ち、息をして、影が生じ、名前を持っていることである。ムントゥには、3つの名前がある。部族(クラン)における個人の名前で、亡くなった親族の生まれ変わりとして、本質的・不変の生命の名前がまずあり、他人(祖先からの継承、割礼の儀式や占い師、首領)からつけられた名前、さらに自分自身でつけた名前である。子どもは祖先の生まれかわりだが、同一視されることはない。こどもの守護となる。生命は神からの贈り物という点では、ユダヤ・キリスト教的な伝統と同じだが、神との契約関係はない。

パントゥの倫理観・道徳観は、ユダヤ・キリスト教的な伝統の十戒や人権の原理と大差ない。善悪は生命力を高ずるものと減ずるものとしての存在論とムントゥの原理に基づいて解釈される。神、祖先、死者、年長者は生命力を減じるものではない。悪とは生命力を損傷することにあり、倫理観で重要なのは、その損傷を回復することである。法的な賠償も、この生命力の回復という文脈に置かれるので、懲罰的ではなく、補償的なものとして機能する。神や先祖、年長者への過ちは賠償ではなく、高次の生命力を認識することで償われる。共同体において悪が生じた場合、懲罰よりも関係性の修復=生命力の回復が重視される。西洋的な懲罰・罰金・懲役などとは異質である。

…京大の公開講座で、名前については、新生児に、その年にあった事件(旱魃とか洪水など)をそのままつける場合も多いと聞いた。ケニアでは、死者は必ず出身地に葬られる。ナイロビから地方に向かう、同郷の知人が大勢乗った埋葬のトラックを何度か見た。クランとの結びつきは、東アフリカでも強いと思われ、この「パントゥ哲学」は、私の知っているいくつかのアフリカ事情とは合致している。また、個人の条件についての箇所で、「影が生じる」などというのは、中世ヨーロッパの魔女裁判的で実に興味深い。

…とはいえ、この「パントゥ哲学」は、はたして「アフリカ哲学」と呼べるものなのか。これが、これ以後の「アフリカ哲学全史」の流れになる。私は、どちらかというと文化人類学的な内容に思える。アフリカの思想を紹介した事自体は大きなことだと思うが、タンベルはやはり西洋人宣教師であって、最終的にはカトリック信仰の必要性に結びつけていくのであるが、さすがにいただけない。

2024年10月14日月曜日

「パントゥ哲学」前編

https://webgenron.com/a
rticles/article20240520_01
「アフリカ哲学全史」(河野哲也著/ちくま新書)の第8章では、1945年に出版されたプラシード・タンベルの「パントゥ哲学」 の話が登場する。タンベルはベルギー生れのベルギー領コンゴ(現在のコンゴ人民共和国)で活動したフランシスコ会宣教師である。彼は、アフリカの伝統的な宗教や教えの中に、一種の存在論や世界観そして独自の思考法を見出し、それを「哲学」と呼んだ。以下、その内容。

アフリカ文化には、存在論や宇宙観が確かに根付いており、神を重視する文化である。生命力そのものである絶対的な存在である一者としての神が、その内なる創造的力によって生きとし生けるものに生命を与えている。生命は創造的な存在であり、その内なる生命によってすべての力は結びついている。力は生命的であり、それは本質的に関係的に動く。生きとし生けるものは、相互に影響を及ぼし合っており、その力は強まったり弱まったりする。

西洋的な独立の「実体」という考え方は、パントゥには異質である。個々人が孤立した魂を持つといった西洋近代の個人主義では、この力と生命の原理を理解できない。神と生命の結びつきは、物理的な因果性を超えて形而上学の因果性(=魔術)と考えられる。また生命は階層的であり、生命の段階をふんでいる。神の後に、最初の人類が力を持ち、動物から植物、鉱物へと生命力は下位になっていく。創造された世界の中心には人間がある。現在生きている人類は、死者のそれを含めて人間性の中心をなす。人間は、生者・死者共に、他の人間の存在(生命力)を強めたり、弱めたりできる。人間の力は、他の下位の生命(動物・植物・鉱物)に影響を与えることができ、理性のある存在(神・聖霊・人間)は、他の下位の存在への影響を介して他の理性的な存在に影響することができる。

…かなり長い記述なので、前編として記しておく。アフリカ・ウォッチャーとしての私の感想は、アフリカの呪術的なスタンスが示されており、アニミズムと共に、シャーマニズム的な論調(その可能性)になっていると思う。

2024年10月13日日曜日

Good Smaritan とゴッホ

https://biblehouse.jp/?pid=97950384
” Good Smaritan”とは「慎み深い人」を意味する語であり、アメリカやカナダなどでは、”Good Smaritan low”という急病人や負傷者を救おうとした人を免責する法律があるそうだ。「名画で見る聖書の世界<新約編>」(西岡文彦/講談社)の書評、本日はこの「良(善)きサマリア人」についてである。

旧約聖書(レビ記)にある「隣人を愛せよ」の「隣人とは誰か?」という律法学者の質問に、イエスがこの喩え話をして、隣人愛の精神の象徴として語った内容として知られる。ユダヤ人の旅人が追い剥ぎにあって衣服を奪われ重症を負わされた。ところが通りかかったユダヤ教の祭司さらにレビ人(ヤコブの子孫で、祭司の一族。モーセもレビ人である。)は、血を不浄なものとする律法にしたがって見て見ぬふりをした。結局助けたのは、ユダヤ人が軽蔑し敵視する隣国のサマリア人、旅人を介抱し宿屋に運び、宿屋の主人に金を渡して世話を頼み、足りない場合は帰路に支払うとまで言うのである。ユダヤ教の選民思想から生まれる異民族との抗争をイエスは革命的に批判したわけである。

ところで、サマリア人とは何者なのかというとこれがかなり複雑である。現在は、イスラエル北部・サマリア地方に住むユダヤ教の一派として認められている”サマリア教”(主な相違点は聖地をエルサレムではなく、ゲリジム山に置いていること)を信奉する人々で、イスラエル王国・ユダ王国の滅亡の歴史の中で、異教徒ではないものの、都合によってユダヤ人と同族だと主張したり、他からの移住者と主張したり日和見的だということで嫌われていたようである。現存するが、人口は1000名にも満たないそうだ。

上記画像の絵画は、ゴッホの作品。左側と、道の奥に、見て見ぬふりをして立ち去る2人が描かれている。この作品は、ゴッホが伝道師としてあまりに献身的であり過ぎたため破門され、精神病院内で描かれた。ゴッホは牧師の家に生まれ、死んだ兄と同じ名前をつけられている。このことが、カインコンプレックスの少し違うカタチに変化したようである。やがて「宗教は移ろい神は残る。」という言葉を残したゴッホは、行き場を失った宗教的情熱で描き続けた。しかも、生き急いだ挙げ句に最後は教会で葬儀も行ってもらっていない。自殺を教会は禁じていたからである。良(善)きサマリア人たらんとした彼の最後は哀れであると著者は記している。…同感である。

聖☆おにいさん・第4巻の表紙にも、この逸話がイエスのTシャツに描かれている。

2024年10月12日土曜日

ダルビッシュ 敗者の美学

https://www.excite.co.jp/news/article/
SportsHochi_20241012_OHT1T51098/
ドジャーズとパドレスの最終決戦、山本由伸投手とダルビッシュ有投手の日本人先発投手の戦いとなった。ポストシーズンの試合のヒリヒリ感が凄い。
結果は7回まで投げて、被安打3、そのうちソロホームラン2本のダルビッシュが2-0で負け投手となったのだが、あの大谷君の全打席を抑え込んだ。大谷君を抑えれる投手はダルビッシュだけという強い印象を残したと私は思っている。
もちろん、5回を完封した山本由伸投手も凄い投球だったが、敗者であるダルビッシュの印象が強く残った試合だった。

2024年10月11日金曜日

ラザロの復活

https://natalie.mu/comic/news/77254
「名画で見る聖書の世界<新約編>」(西岡文彦/講談社)には、福音書にあるイエスの奇跡についての名画の解説も数多く載せられている。と言いつつ、上記画像は「聖☆おにいさん」である。イエスのTシャツは、2匹の魚と5個のパンから5000人分の食事を用意したという奇跡を表現している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B6%
E3%83%AD%E3%81%AE%E5%BE%A9%E6%B4%BB_%28%E3%83%AC
%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88%29
数多くの奇跡があるのだが、最大の奇跡は、ヨハネの福音書に出てくる、聖母マリアの弟、つまりは叔父にあたるラザロを生き返らせたことだとされる。上記の画像は、レンブラントによる「ラザロの復活」である。ラザロは、当時の埋葬の習慣で包帯を巻いている。このラザロ、伝承によれば後にキプロスの主教となったとされ、カトリック・オーソドックス・アングリカンなどでは、列聖されている。

2024年10月10日木曜日

洗礼者ヨハネの毛皮

https://jbpress.ismedia.
jp/articles/-/76232
久しぶりに「名画で見る聖書の世界<新約編>」(西岡文彦/講談社)の書評。イエス誕生時の東方の三博士の名画などをぶっとばして、洗礼者ヨハネの名画のことを記しておこうと思う。洗礼者ヨハネとくれば、約束事で毛皮を着ているのである。そもそもヨハネはイエスのいとこにあたる。ルカの福音書では、聖母マリアの親戚であるエリザベトと老齢だった祭司ザカリアの息子であるが、天使の男子誕生の知らせを半信半疑だったザカリアは、ヨハネの名を神殿で告げるまで口が聞けなくなるというオマケ付きの話である。左の画像は、ラファエロによる聖母マリアとイエスといとこのヨハネなのだが、すでに毛皮をまとっている。おかしな幼子だが、身分証明である。(笑)

当時のユダヤ教は徹底した選民思想であり、神との契約もユダヤ人と結ばれたものとしていた。したがって、ユダヤ人以外の民族はユダヤ教に入信するためには洗礼が必須であったし、厳格なユダヤ人はユダヤ人の俗人の接触さえ一切絶っていた。こうした選民思想に疑問を突きつけたのがヨハネである。彼はあらゆる人を受け入れ、ヨルダン川の水に全身をつけて洗礼を行った。なにより彼が重視したのは「自らの罪を悔い改めること」で、洗礼はその儀式であった。「神の国は近い」と力説し、形骸化した律法主義に警鐘を鳴らし、多くの人々が洗礼を受けようと殺到した。イエスは、布教活動に先立ってヨハネの洗礼を受ける。「私こそあなたの洗礼を受けるべきなのに」と言うが乞われて洗礼を与えたわけだ。

http://isekineko.jp/greece-dafni.html
洗礼の名画はたくさんある。私はパブティストではないが、全身洗礼にこだわるので、ギリシア・アテネ近郊のダフニ修道院の壁画(11世紀のモザイク画)をあえて示したい。神の手と聖霊の象徴の鳩が描かれている。

その後、ヨハネは、サロメの見事な舞への褒美として、ヘロデ王(イエス誕生時に幼児を大量虐殺した王の息子)によって殺される。これは、前王の妃の妹にあたるサロメの母が、ヘロデ王の妻になっていたことを、ヨハネが「兄弟の妻を娶るのは良くない。」と諌めたことを恨んでのこと。有名な「サロメ」の話である。まあ、ヘンリー8世が、死んだ兄の許嫁(スペイン王家のカザリン)と結婚しなければならなかった話に似ている。当時の教皇は、スペイン王家のカール5世(=カルロス1世:カザリンは叔母にあたる)の意思を受けて、教会法を曲げて、ヘンリー8世を説得したのだが…。男女が逆だが、似ているような似ていないような話ではある。

2024年10月9日水曜日

追憶 サンディエゴ

https://blog.looktour.net/san-diego-air-space-museum/
ドジャーズがサンディエゴ・パドレスに敗れて、窮地に立たされている。こういう状況で書きたくはなかったのだが、パドレスのあるサンディエゴという街は、ロスより好きなので少し追憶したいと思う。

ロスからアムトラックに乗ってサンディエゴに着いた。サンディエゴの南はすぐメキシコである。ここは、ハワイと並ぶ海軍の太平洋の要衝で、私が行った時は空母は停泊していなかったが、海岸は実に風光明媚で気持ち良い。

サンディエゴの街では、サンダル履きで、ヒストリックタウンのあたりを彷徨いながら、安宿を見つけて、バックパックを置いた。一応ホテルなのだが、部屋を借りて住んでいる人々もいて驚いた。アメリカであるのに、クーラーはなく、扇風機。しかもTVは白黒だった。その白黒TVをつけると、老いたハルク・ホーガンが映ったのを鮮明に覚えている。その夜は、カーニバルか何かで騒がしかったが、翌朝、清掃の人々が一生懸命に清掃しているのを横目で見ながら、コーヒーを飲んだ。なんだろう、妙にこの街が気に入ってしまったのだ。

https://news.line.me/detail/oa-trafficnews/9601f0b9d792
サンディエゴの街はいい。ロスみたいなバカ広い街ではないし、お目当ての航空博物館(上記画像参照)は、見ごたえがあった。映画「トラ!トラ!トラ!」で、爆撃によって破壊されていく飛行艇・カタリナ(上記画像参照)を見たかったのだ。私は飛行艇が大好きで、実に美しい。大満足したのだった。その近くに輸送機の操縦席の展示(操縦席だけ輪切りにしてある)があって、爺ちゃんが孫に離陸の仕方を教えていたことも印象に残っている。「スロットルを引け!今だ!」退役軍人の爺ちゃんを尊敬する孫の眼差し。…いいねえ。

サンディエゴからレンタカーを借り、レゴランド、ラスベガス、R66でアリゾナを満喫し、ユマからサンディエゴに戻ってきた。またこの安宿に泊まり、帰路は飛行機。空港は街に近く、こんなアクセスの良い空港を私は他に知らない。ロスまで30分くらいだったように思う。おそらく、ドジャーズの遠征でも、ちょっと乗っていく感じだと思う。頑張れドジャーズ。ヒリヒリする試合を見せてくれ。

2024年10月8日火曜日

貨物列車とAランチ

最寄り駅・6:39発の区間快速に乗ると、放出(はなてんと読む。大阪人以外には超難読駅名である。)駅に7:00すぎに着く。先頭の車両だと座れるので、このところ毎日、この区間快速に乗っている。実は、早めに行ける以上に、重要なオペレーションがあるのである。ここから普通電車に乗り換え、鴫野(しぎのと読む。これも難読駅名。)に向かうのだが、先頭車両のあたりで待っていると、次の普通電車が来るまでに、貨物列車が通過するのである。

鴫野駅と放出駅の間には、私の利用する学研都市線とおおさか東線が走っており、このおおさか東線は昔、城東貨物線(京橋と鴫野の中間あたりで学研都市線に合流する。)であった。よって今もJR貨物がこの区間を通るわけだ。今は、貨車はほとんどがコンテナであるが、貨物用の電気機関車は、どれが牽引しているか毎回楽しみである。今日は、”レッドサンダー”という赤い機関車だった。時折青い”桃太郎”の時もあるし、それ以外のレアな機関車も時々見ることが出来る。たまに、来ない時もあって落胆することもあるのだが…。鉄道ファンというほどでもない私だが、貨物列車は大好きで、東海道本線の沿線などに行くと、よく貨物列車が通過するのでワクワクする。(笑)

さて、全くのベッケンバウワーであるが、今日は学院の食堂で、Aランチを始めて食した。私が食堂に行くと大抵売り切れているので、ほぼ毎回、おろしトンカツ定食(400円)なのだが、今日はなぜか食券が買えたのである。ちなみにAランチは洋食で550円、Bランチは和食で500円。


毎日メニューが変わり、1週間分の内容が貼ってある。今日のAランチの主役は、オムライスのクリームソースかけ。オムライス大好き(子供っぽいが…)の私としては、実にラッキーであった。味も量も価格も大満足のAランチであった。また、こういう機会があればいいなと思っている次第。

2024年10月7日月曜日

眼鏡を忘れた日

https://eyeware-madoca.com/
presbyopia-measures/
眼鏡をするのを忘れたまま、最寄り駅に着いた。気づいたのは、沢木耕太郎の文庫本「旅のつばくろ」を読もうとした時だった。どうも見にくい。あっ!と気づいたのだった。時間的に、もう家に戻ることもままならず、このまま学院に向かうことにした。私の眼鏡は、基本老眼が主体なので、眼鏡が無くても歩けるのである。

というわけで、今日は久々にブルーだった。男子生徒が目ざとく見つけて、「今日は眼鏡してないんですか」と、各クラスで言われた。女子ではなく、男子なのが残念というか何というか…。(笑)

しかし、復路で結局「旅のつばくろ」を読み終えた。あまりの面白さに、読みにくいながらも、つい読んでしまったのだった。まさに、沢木耕太郎の魅力が詰まったエッセイ集である。こんな話があった、あんな話があったと書きたいのだが、このブログを読んでいただいてる皆様にもぜひ読んでいただきたいので、あえて筆を置きたい。

2024年10月6日日曜日

フランツ・ファノンの哲学

「アフリカ哲学全史」(河野哲也著/ちくま新書)の第7章には、植民地主義を批判した哲学者であり、精神科医であり、アルジェリア独立運動を指導した革命家、フランツ・ファノンの哲学について記されている。いよいよWWⅡ後の思想家ということになる。

彼は、1925年マルティーク島で、インド系の父と、白人と黒人の混血である母の間の中流家庭に生まれた。当然ながら、マルティークなので、セゼール(10月1日付ブログ参照)の影響を受けている。とはいえ、セゼールが1939年に帰島した時点では14歳。18歳になった1943年、ド・ゴールのフランス解放軍に入隊し、レジスタンスや志願兵として転戦、負傷する。人間の自由と尊厳という理想のため参戦したが、人種差別と卑小なナショナリズムに直面する。マルティークでは、WWⅡの期間中、約2000人のヨーロッパ人が身を寄せていたが、フランスが敗北すると剥き出しの人種主義を黒人に示したという。終戦後、セゼールの選挙の手伝いをした後、退役軍人として高等教育の資金を得、翌年フランス本土に留学、リヨン大学で医学、精神医学をに学ぶ。このころ、哲学に強い関心を持ち、ヘーゲルやサルトルの影響を受け、現象学のメルロ=ポンティの講義にも出ている。

人種差別は、マルティークより本土の方が深刻であった。1851年精神科医の資格を習得。研修を経て、1953年にアルジェリアの首都から南西50kmほどの都市の精神病院の医長となる。ここで、ヨーロッパ人女性やアフリカ系男性の治療と分析を通して、彼らが植民地主義の犠牲者であり、被差別民族や被植民者の心理的問題の理解のため、過去のトラウマを分析する必要があった。56年にはこの病院を辞し、アルジェリア民族解放戦線(FLN)として活動、医療活動と医療改革を進めながら国際舞台でのFLNのスポークスマンとして活躍、1961年「地に呪われたる者」を発表後、白血病で死去。アルジェリアが独立したのは翌年のことであった。

「黒い皮膚・白い仮面」は精神科医として、白人の人種差別の眼差しから黒人に負の影響・劣等感が生まれ、非難の声を発する時自己疎外が起こると分析、これを開放しなければならないと主張した。これらの精神病理学的な黒人のメンタリティは、個々の問題ではなく、奴隷制と植民地化という歴史的・経済的状況から生じており、劣等コンプレックスの内在化によって生まれる。一方で、ヨーロッパ人に有効な治療法は普遍的ではないことも学んでいる。

遺稿となった「地に呪われたる者」の第一章は「暴力」であり、極めて多くの議論を呼んできた。いかなる表現がなされようとも非植民地化は暴力的な現象である、西洋による植民地支配は巨大な暴力である。原住民は、他者からこの暴力を内在化して、同胞を攻撃し合う一方で、自分たちの攻撃性を抑制してしまう神話と魔術の世界へと逃避している。こうした秩序を変え、植民地という社会を解体するのが、非植民地化というプログラムである。よってこれを覆す人類史上の歴史的な過程であり、このプログラムを実現しようと決意する者は常に暴力をもつ必要がある。セゼールの「奇跡の武器」という詩を引用し、サルトルが「序」を寄せて、ファインのカウンター・バイオレンスを正当化した。

対他存在を主張するサルトルらしい話だが、著者は、サルトルは、黒人と白人の決定的な非対称性を見逃しており、ファノン自身は白人文明を否定しつつ、自己の黒人性をも否定している。自分がフランス語しか解さないインテリで植民地主義の申し子であるからである。自分は黒人である権利を持たない故にその内実を欠いた存在として、その空虚さを通して初めて人間性を見出すと考えている。サルトルの賛辞は、そういったファインの思想抜きに語られていると批判的だ。

もう一人、この「地に呪われたる者」を批判した哲学者が登場する。アーレントである。読んでいると、まるで、学級会でお嬢さん然とした子が、暴力反対の正論を述べているだけのように感じた。アーレントの論文には植民地化された人間たちの苦悩や憤怒に共感する叙術は殆ど見当たらないし、無理解にすぎると著者は記している。…全く同感である。同じユダヤ系でありながら、レヴィナスのナチに受けた試練(家族全員が虐殺された)とはおよそ違い、アメリカ亡命したアーレントならではの「空虚な理屈」対応のように私は感じた。

当然ながら、ファインの暴力論は、後のアフリカ独立闘争に大きな影響を与えていく。

2024年10月5日土曜日

祝 学園野球部 近畿大会出場

https://vk.sportsbull.jp/koshien/articles/ASSB51JHFSB5PTQP003M.html
びっくりした。学園の野球部が、県大会の3位決定戦で勝利し、20年ぶりの近畿大会への出場が決まったのだ。近畿大会での成績によっては、選抜出場もありうるわけだ。

直接教えた生徒はいないけれど、やはり嬉しい。先生方も先輩たちも喜んでいるだろう。サッカー部もインターハイ準優勝の雪辱を誓っているだろうし、文武両道の学園の面目躍如である。

2024年10月4日金曜日

沢木耕太郎「旅のつばくろ」

併読癖が治らない。(笑)先日近くの書店で、沢木耕太郎の「旅のつばくろ」(新潮新書)を購入して通勤時に読んでいる。好きな作家は誰か?と問われると、私は迷わず沢木耕太郎と答える。初期のノンフィクションが素晴らしい内容であることもあるが、何より沢木耕太郎の文章自体が大好きなのである。このような文章が書ければいいなと常に思っている。

この「旅のつばくろ」は、文字通りの「珠玉のエッセイ集」である。それなりに発行から時間も経過しているので、内容について記してもいいのではないかとも思う。今日は1つだけ紹介したい。

「ごめんなすって」というエッセイに登場する編集者に、「私は文章から無駄な形容詞を排除することを徹底して叩き込まれた。どうしても必要なら、その前のセンテンスで説明しろ。」と言われたことが書かれている。沢木耕太郎の文章が大好きな私としては、実に重要な言であるわけで、心がけていこうと思っている。

2024年10月3日木曜日

デコピンのCM

大谷選手が、リハビリ中の投手であることを完全に忘れてしまうような凄い成績を残してシーズンを終えた。いよいよ、ポストシーズンに突入であるが、地区優勝してしかも勝率一位のドジャーズはシードされている。なかなか複雑なポストシーズンの説明をCMでしているのが、今や世界一有名な犬・デコピン(アメリカではデコイと呼ばれている)である。(笑)このアイデアは、実に面白いし、大谷選手とファミリーがいかに愛され、注目されているかがよくわかる。

さっそく、ダルビッシュの所属するサンディエゴ・パドレスが、ワイルドカード・シリーズで2連勝して、ドジャーズと対戦することになった。短期決戦で、何が起こるかわからないし、レギュラーシーズンでは、西地区で優勝したドジャーズのほうが分が悪いらしい。たしかに、パドレスは強いチームだ。対戦はもう少し後だが楽しみである。

デコピンのCMが見れるコンテンツ:https://www.google.com/search?sca_esv=9177e7b6d39e290e&rlz=1C1QABZ_jaJP1003JP1003&sxsrf=ADLYWIKHd_7Z81yKojrJCEyiYRVFh93xKQ:1727954735659&q=%E3%83%87%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%B3CM&tbm=vid&source=lnms&fbs=AEQNm0Bu9EW69w3dDUDKZDYmz9rwfPXhWvHc1-qav4QtL1zKm6Vth3bwjWJs0eABtl-IBGvZW0JDU9KwwSZ5W22PVDjGdSMJWbqnkZWkjpbbAO32tSvo3V-JUEK31jgocLjm9rq2bycunq4zq48xqAV_nomuQMBkGwYIGVvsNm9vrqtjhLOsophZlRLIM6cIasLqceWw-76St-WChAjLL49J3Ng4sRlwls1BzOaFn9Hp_po4wN5HCRM&sa=X&ved=2ahUKEwjwsdOBjfKIAxW2r1YBHUpFCcsQ0pQJegQIERAB&biw=1536&bih=742&dpr=1.25

聖ヨセフの憂鬱

https://upload.wikimedia.
org/wikipedia/commons
/b/bd/Robert_Campin
_-_M%C3%A9rode_
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「名画で見る聖書の世界<新約編>」(西岡文彦/講談社)には、聖ヨセフのことも詳しく書かれている。神学書ではほとんどふれられることのない、聖母マリアの夫である。聖人に加えられたのは19世紀後半。すでに5世紀に神の母として認定されたマリアとは、えらい違いである。

外典である「ヤコブ原(げん)福音書」によれば、マリアが14歳になった時に、天使のお告げでユダヤの独身男性に招集がかかる。おのおのが枝を一本持って集まるように命じられ、亡くした先妻との間に息子もいたヨセフも独身者であるが故、神殿への招集に応じた。無数の独身者の中で、ヨセフの枝にだけ花が咲き、神の意にかなった男性とされ、婚約者になったというわけだ。…出来杉君であるが、面白い。

ヨセフは、かなり年上で、「正しい人」とされ、アブラハムのひ孫にあたるともされている。とはいえ、名画での描かれた方は、不機嫌そうな老人であることが多い。聖人になったのは、描かれた以後だし、画家たちにも遠慮がない。(笑)

この画像は、ロベルト・カン・ビンの「受胎告知」の右側に描かれたヨセフ。ネズミ捕りを作っている姿が描かれていて、完成品が窓のところに描かれている。うーん、…ネズミ捕りを作る養父ヨセフとは…。もちろん画家のイメージによる創作だろうが、あまりに可愛そうであると私などは思うのだが…。

2024年10月2日水曜日

名画で見る新約聖書

学院の図書館で、「名画で見る聖書の世界<新約編>」(西岡文彦/講談社)を借りてきた。このところ、アフリカや現代の哲学関係を読んでいるので、頭の休憩にちょうど良いかと思ったのだ。ところが、これがなかなか面白い。

たとえば、聖母マリアの受胎告知の絵画には約束事があって、①赤と青の衣で描かれること。②天使は純潔の象徴であるユリを持っていること。③マリアは聖書を読んでいる最中であること。となっている。

とはいえ、代表的な受胎告知の絵画は、マルティーニの作品なのだが、彼はフィレンツェと対抗するシエナの礼拝堂のために制作したので、オリーブの枝を持っている。フィレンツェのシンボルがユリだったかららしい。(中世的であまり私の趣味ではないゆえに画像は割愛させてもらった。おそらく作者名で検索すると出てくると思う。)

時代とともに、この約束事は破られていく。私が受胎告知の作品群の中で、最もいいなと思う作品は、アンネトロ・デ・メッシーナの「受胎告知のマリア」である。

この作品には天使・ガブリエルはいないし、アトリビュート(持ち物の約束事)のユリの花もない。青いショールの下にのぞく赤い服で、マリアだと判明する。しかも開かれた聖書で受胎告知の場面だとわかる。マリアの心理描写に重きを置いた作品であるとか、天使が去った後を描いたとも言われる。手の動きは当時の修道会の「執り成し」の祈祷の型であるらしい。…うーん、いかにも。”執り成し”とは…。聖母マリア信仰の本質を突いた、実にイカす絵画であると思う。

マリアの受胎告知について述べられている福音書は、マタイとルカのみで、しかも短い。この時、マリアが読んでいたのは当然ながらユダヤ教の聖書で、イザヤ書7章14節であると、おそらく後から言われているようだ。「主は自らひとつのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエル(神は我らと共にの意味)となえられる。」…出来杉君だなと思ってしまうが、旧約の様々な救世主予言をイエスは実行していくので、なるほどとしか言いようがない。

この本についても、面白い箇所や気に入った絵画について少しずつ、肩のこらない書評を書いていこうかな、と考えている。

2024年10月1日火曜日

セゼールの「植民地主義論」

「アフリカ哲学全史」(河野哲也著/ちくま新書)の第6章には、ネグリチュード運動(1930年代にアフリカや西インド諸島のフランス植民地出身の作家たちによって起こされた文学的かつ政治的運動)のことが詳しく述べられている。本日は、その中で印象深かったエメ・セゼールについて記しておきたい。

セゼールは、西インド諸島南部のマルティニーク島(現フランスの地方行政区画)出身。頑強に抵抗した現地人はフランス軍に征服され壊滅し、サトウキビ・プランテーションのため、アフリカ系奴隷が輸入された歴史をもつ。フランス革命時はロペス・ピエールが奴隷制度廃止を決議したが、ナポレオン時代に妻のジョセフィーヌが、娘の島出身だった故に西インド諸島の奴隷制を復活させたらしい。(ジョセフィーヌにはその責任はないらしい。)1848年の2月革命で、奴隷制が廃止された。セゼールの家庭は、アフリカ系中産階級に属しており、1931年に奨学金を得て渡仏、高等師範学校に学ぶ。ここで、同じ島出身のダマス、セネガル出身のサンゴール等と出会い、フランス語で「黒人学生」という雑誌を刊行、白人による差別の中、アフリカ起源の人間であることとそのアフリカ性を自覚していく。彼が、影響を受けたヨーロッパの知識人は、ベルグソン(プロティノスという古代アフリカの哲学者に深く影響を受けていた故にアフリカ的発想をしていた)であったという。WWⅠ後、アフリカ人の発言権が強まり、汎アフリカ会議や、ホー・チ・ミンの植民地同盟の結成もあった時代である。

セゼールは、故郷に戻り教師となり、1945年に故郷の首府の市長になる。植民地を制度的に本国に同化する県化法を起草しながらも、文化的なフランス化を拒否する立場をとり、この経験を元に1955年に「植民地主義論」を記した。この著作は、アフリカ大陸で影響力を振るうことになる。

人種主義とは、キリスト教=文明、異教=野蛮、白人=優越権、有色人種=劣等種という図式を立て、植民地支配を正当化しようとする、何より哲学的な営みであると指摘する。そして、ナチズムは植民地主義を白人同士で適用したものに過ぎないと、近代の西洋哲学の枠組みそのものを鋭く批判した。欧州はもはや弁護不能であり、自分たちの問題を解決できない文明として衰退仕切っていると断言した。

白人がしばしば偽善的に主張するように、植民地化は、福音伝道でも、博愛事業でも、無知や病気を暴政の支配を交代させる意思でも、神の領域の拡大でも、法の支配の拡大でもない。植民地化は、略奪と金儲け、支配という欲望を暴力によって推進すること以外のものではない。西洋諸国は、そうした暴力的欲望を他の国との競争の中で、世界規模まで拡大したというだけである。

しかし、彼はこうした暴力的欲望の発揮そのものは植民地化ではない。1511年にアステカを崩壊させたコルテスもピサロも自分たちの略奪と殺戮を何か高潔な目的のための先駆けなどと気取りはしなかった。植民地化とは、その後にやってきたおしゃべりな人間たちの衒学(げんがく:ひけらかす)的態度から生まれてくる。キリスト教=文明、異教=野蛮、白人=優越権、有色人種=劣等種という図式を現地の人間に信じ込ませ、自らも信じ込むことこそが植民地化の本質である。したがって、植民地化とは思想であり、異文化同士の相互交流が文明であるとすれば、文明と無限の隔たりのある野蛮であり、植民地支配者を非文明化し、痴呆化・野獣化し、品性を堕落させ、もろもろの隠された本能を、貪欲を、暴力を、人種的憎悪を倫理的二面性を呼び覚ますものである、と。

…ある意味胸がすくほどの強烈な植民地主義批判である。私が最も興味深かったのは、前述のナチズムの話である。「白人たちがヒトラーを許さないのは、ヒトラーの人間に対する罪ではない。それまで、アラブ人、インド人、アフリカ人にしか使われなかった植民地主義的なやり方をヨーロッパ人に適用したからである。白人はナチスと同じことを長年にわたって非西洋人に、とりわけアフリカ人に行ってきた。ナチズムのユダヤ人虐殺の野蛮を嘆き悲しんでみせる西洋人の態度は欺瞞に過ぎない。ユダヤ人も白人の一部としてアフリカへの直接的・構造的暴力に加担してきたからである。この批判の言葉を吐く権利がアフリカ人にはある。」…これ以上の西洋批判は存在しないと著者は記している。私も同感である。アフリカという第三の視点「知の三点測量」から歴史を、哲学を見る、というこの本の試み(9月11日付ブログ参照)はこの時点で成功していると思う。