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次に歴史に名を残す聖人を三人。一人目は、神学上の功績から列聖されたトマス・アクィナス。「神学大全」は、宗教改革時に行われたトリエント公会議では、聖書と神学大全だけが議場に置かれていたと伝えられ、19世紀には、彼の神学こそがカトリックの教義の解説だと教皇が宣言したほどである。二人目は英仏の百年戦争時の1412年に生を受けたジャンヌ・ダルク。13歳の時に天使ミカエルから「英軍をフランスから追い出し、王太子を王として戴冠させるように。」との指示を受けた。フランスでは当時、「武装した処女が国を救う。」という預言の噂が広まっており、次第に本人も信じるようになる。16歳の時、やっと王太子との面会が許されるのだが、王太子は兵士の1人に扮して隠れていた。彼女は、迷わず兵士に扮した王太子に語りかけたという。王太子は、神の加護を信じ決して負けないという甲冑姿の彼女に賭け、見事に勝利し、シャルル7世となった。側近となり、さらにパリに攻め入った彼女は、英軍に捕らえられ、宗教裁判で魔女と判定され、火あぶりとなり遺体はセーヌ川に流された。1453年百年戦争はフランスの勝利に終わり、1956年宗教裁判で、生前の判決が覆された。1920年に列聖され、フランスの守護聖人となっている。三人目は、イギリスから。ヘンリー8世の側近だったトマス・モアである。例の離婚話でトマスは国王のカトリック離脱に反対し、ロンドン塔に幽閉され斬首刑となった。1935年、カトリック教会より列聖されている。聖公会(英国国教会)成立の影に、カトリックの聖人がいたわけだ。
最後にあげるのは、ロヨラである。バスクで生まれたイニゴは、最初軍人を目指していたが負傷し、病床でキリスト教の書物に触れ感激。特にパウロの弟子でアンティオキアの司教となり、皇帝トラヤヌスによって、大観衆のコロッセオで立派に飢えた猛獣の餌となった聖イグナティオスの名と生まれた城の名を合わせ、「イグナチオ・デ・ロヨラ」と名乗るようになる。パリ大学で学び、信頼できる仲間を得、反宗教改革に立ち上がる。そう、イエズス会の初代総長である。日本ではザビエルが超有名だが、日本人信徒の奴隷貿易の疑いもある。ザビエルとロヨラは、帰天後、1622年そろって列聖されている。その後18世紀には、巨大な功績を上げた故にカトリック教会内部から批判が募り、イエズス会は国外追放され、教皇から解散を命じられた。イエズス会はロシアに逃れ、19世紀に教皇より再び活動を許可された。その後各国で大学を創設し、キリスト教教育で存在感を示している。…急いでカトリックの学びをしてきたが、この理由についてはまた違う機会に述べたいと思う。カトリック教会は、西欧史では非常に重要な位置にある。どうしても歴史的事実として批判するところが多い。前述のレコンキスタ時の大ヤコブの遺体発見とかは、かなり政治的な戦略っぽいし、十字軍の聖遺物狩りも眉唾ものである。何より、この聖人には、各地の伝説に礎を置く守護聖人も多数存在する。ブディストである私自身は、シンプルなカルヴァン派のようなプロテスタントのほうが肌に合う。神仏習合的なイメージが重なるのである。そもそも人間は、多神教的なのかもしれない。聖人という概念も、かつての出エジプト記のユダヤ民族のように、モーセがシナイ山から戻ったときに牛を祀っていたように、生理的に多神教を好むのかもしれない。それがカトリックでは顕著で、聖人として存立されているのかもしれない。そんな感想を持ったのだった。
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