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ヨハネ福音書(画像参照)は90年あたりに記されたらしい。他の福音書とは違う独自な雰囲気がある。それは極めて抽象的で神学的なところである。ヨハネ福音書の立場は、次のようなものである。神がいて、世がある。神は世を作ったが断絶しており、人々は神なしの状態にある。そこで神はイエスを遣わした。神は相変わらず遠くにいるが、世の人々はイエスを受け入れ、結びつくことで救われる可能性が生じた、という「イエス中心主義」である。マルコ福音書では唯一の、ルカ文書では唯一ではないがイエスは聖霊を授かった者、マタイ福音書では、新しい掟を伝えた者という立場と違いがあるのである。
ヨハネ福音書のイエス中心主義の構造は、アブラハムへの神の祝福と相似している。これは、ソロモン王の時代、拡大したユダヤ国家で、征服民を糾合していったのだが、結局アブラハムにつながる十二部族か否かで区別をつけるようになった。当時のユダヤ人はすでにそういう区別を意識していなかったようだ。(ちなみにパウロは、自分はベニヤミン族だと十二部族出身だとあえて語っている。)神に祝福されたアブラハムと十二部族は人間であるが、イエスは、彼一人が本質的に別の性質をもつ存在であって、イエスと同等の者はいない。アブラハムの場合は、「神の側の者」と「神から離れている者」に区別されるが、イエスの場合、「イエスを受け入れる者」と「神から離れている者」に区別される。「神から離れている者」とは、律法主義のユダヤ人主流派を意味している。イエスは、モーセよりはるかに高い権威であるという図式が出来上がったわけだ。加藤先生の神学は、実に興味深い。
…今回でカトリックの学びについては、一旦止めることにする。短期間で研鑽を進めたが、著者による神学的立場の違いがかなりあることに気づいたし、以後の学びの土台となった気がする。あと何年か、私はブディストの立場から、カトリックについて日常的に考えることになりそうだ。
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