2023年12月16日土曜日

聖書の読み方1

先日書いたが、今カトリックのことを訳あって調べている。学園の図書館で、「聖書の読み方」(大貫隆著/岩波新書)他を借りてきた。この本は、3部構成になっていて、最初に聖書の読みづらさについて、著者が聖書学やキリスト教額入門等で講義しているいくつかの大学生のアンケートから再構築された内容が出てくる。さらに、第2部では、著者の経験を元に、聖書の読み方の提案、第3部では、読書案内が記されている。

まずは、第1部の読みづらさについて、整理していこうと思う。私も、何度か、旧約を始め、新約の福音書等に挑戦したが、確かに読みづらい。内容が膨大なので、目次から、その内容を拾ってみたい。

1️⃣正典と古典であるがゆえの宿命:1.聖書はただ信じるべきものなのか。2.聖書は神が書いたものなのか。3.(礼拝の時)どうして部分しか読まないのか。4.聖書は難しく堅苦しい。5.(要約的な再話として)間接的にしか読まない。

2️⃣聖書そのものの文書配列の不自然:6.全体のつながりがわからず、どこから読んでも迷路に迷い込む。7.隙間だらけの旧約聖書。8.読むに読めないモーセ律法。9.詩文と預言書はバラバラの断章の集合体。10.本筋が見えにくい新約聖書。11.難渋なパウロの手紙。

3️⃣異質な古代的世界像:12.天地創造は進化論と矛盾するか。13.神が創造した世界になぜ悪があるか。14.イエスの奇跡物語は何故そうなるのか。

4️⃣神の行動の不可解:15.暴力的で独善的な神の押しつけではないか。16.神の国のたとえがわかりにくい。17.イエスの復活がわからない。18.どうして語り手の経験が見えにくいのか。

…現代に生きる信仰を持たない日本人学生が、書いたアンケート故に、私の疑問も多数含まれている。第1章を読み終えた時点で、私の感じる所を記しておきたい。聖書と仏典を対比すると、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書などは、仏典における如是我聞的なスタンスから、その記述に相違があるのは仕方がないことかなと思う。また、クルアーンと比較すると、その文書配列は神(というかその下僕たるジブリール=ガブリエル)の意志によって配列されている。この配列は決して人為的ではない。旧約・新約聖書に関しては編纂時に人為で行われたフシがある。クルアーンのほうが、文書配列が難しいと思っている。

…3️⃣聖書の異質感は、フーコーが主張するように、我々は19世紀以来の理性への信頼が確立されてしまっているがゆえの異質感のように感じる。プレモダンの世界では、異質感はなかったのだろう。こういう前提を踏まえたほうが良いのではと思う。奇跡についても、宗教学的にはありうると私は実感している。ただ、神が創造した世界に、何故悪が存在するかという疑問は大きい。これは一神教全般に言えることで、どうとらえるかは重要であると、今はそうしか言えない。

…4️⃣の15は、特に旧約聖書の歴史書の記述に関わるものと思われる。これをどうのこうのと論じることは私はナンセンスだと思う。たとえ異教徒であっても、人知を超えた話で、まさに語り得ぬことには沈黙するしかない、と思う。…つづく

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