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アフリカ諸国が独立する直前の1950年代、アフリカはグローバル経済の優等生だった。WWⅡで巨額のドル債務を抱えた欧州、とりわけイギリスは、債務返済のため熱帯植民地からの輸出を奨励した。アジア植民地がひと足早く独立に向かうと、アフリカとカリブ海植民地への期待が高まり、タンガニーカの落花生農場の機械化など輸出向け商業農業の振興政策が展開された。1950年の時点で、アフリカの人口が世界人口に占める割合は8.8%だったが、アフリカの輸出総額が占める割合は10%に達していた。グローバル化の波に乗ることがアフリカの発展の必要十分条件だとすれば、植民地時代に戻りさえすれば良いということになってしまう。1950年代はのアフリカは、輸出に支えられて成長していただけでなく、グローバルスタンダードに完全に適合していた。公式の言語は、英語や仏語であり、会計制度は宗主国そのままだったからである。
アフリカ諸国は独立後、ガーナ大統領・ンクルマの言葉通りにはならず、政治的栄光に、経済発展はついてこなかった。この大きな要因として、小農の増産へのインセンティブを奪う政策を展開してきたことが指摘される。西アフリカの国々はカカオなどの輸出産品に、東南部の国々はメイズなどの食糧作物に高率の税を課し、その税収を非効率的な国営企業や軍の維持に向けたのである。アフリカ史家のフレデリック・ターバーは、このような国々を「門番国家」と呼んだ。ただし、こうした収奪的な経済制度は独立国家が植民地体制から引き継いだものである。食糧生産が滞ったまま、人口が増えていくと長期的には物価が高騰し、賃金コストがかさみ、製造業も伸びない、これが経済の鉄則である。
1980年代、世界銀行(画像参照)とIMFは、構造調整と呼ばれる新自由主義的な政策枠組みを強制した。国営企業の民営化、公務員削減、歳出削減、規制の撤廃、補助金の撤廃、為替自由化といった政策を、政治的立場が弱いアフリカやアジア、ラテンアメリカの国々で、極端なカタチで実験的に導入したのであった。しかし、痛みばかりで果実は生まれなかった。むしろ失業者の増加、公的支援の後退で、乳幼児死亡率が上昇するなど福祉水準の低下が見られた。これに、ユニセフやWHO、ILOなどが警鐘を鳴らし「人間の顔をした調整」を求め、その延長線上にUNDPの人間開発の提唱に至るのである。
1980年代に進行した「政府の退場」は、経済のみならず政治も不安定化なものにした。冷戦の崩壊で、伝統的なパトロンとクライアント関係は一挙に流動化し、1990年代のアフリカは激しい紛争の時代を迎えることになる。21世紀に入ってからは、コートジボワール、ケニア、ジンバブエなどアフリカ経済の優等生国家でも暴力的紛争が続いた、しかし、概ね沈静化している。現在までに8割以上の国が複数政党制へと移行し、次に「壊れやすい平和」の時代が訪れたのである。
…アフリカ経済に対する旧植民地主義、さらに世界銀行やIMFの行った愚策が更にアフリカの開発を遅らせたことは明白である。美名の名において、見事にハシゴを外されたわけだ。
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