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「歴史の中の新約聖書」のエントリー第3回目。まずは、ヘレニストについて。ヘレニストはギリシア語圏に住んでいたギリシア語を話すユダヤ人のことである。終末が近いと信じていた彼らは、アラム語圏のエレサレムに移住してきており、原始キリスト教団内部でも、ペトロたち穏健主流派と対立し、やがて分離する。彼らは、神殿について過激な反神殿の立場を取り、リーダーのステファノが逮捕・処刑された。(36年頃・キリスト教最初の殉教者である。画像参照)ペトロたち穏健派は迫害されなかったが、キリスト教のヘレニストは迫害を受けサマリアで伝道する。次のリーダーとなったフィリポは、「神の支配」「神の国」を説き、神が直接に介入する、神との直接のつながりが生じるという「情報」を伝えた。聖霊を受けていない彼らのできたことは、この福音を伝えることだけであった。聖霊を与えるかどうかは神がすることであってフィリポたちにはできないと判断して去った。そこにエレサレム教会から、ペトロやヨハネが来て、人々が聖霊を受けていないことを知り、人々の頭に手を置くという動作で聖霊を与えたとされている。(加藤先生は、金銭のやり取りが存在したかどうかという面でも議論の余地ありとされている。)どうもペテロは、組織運営・マネジメントがあまりうまくなかったようで、「主の兄弟ヤコブ」が二代目の指導者となり、ステファノの処刑後、No2の位置に下がった。最初の福音書、ギリシア語で書かれたマルコの福音書は、彼らヘレにストの流れにおいて成立したと考えられている、とのこと。
マルコ福音書を一言で言ってしまえば、聖霊主義という立場。神との直接的なつながりだけが重要だとする立場である。前回のエントリーに記したヨハネに洗礼を受けたシーンで示されたように、神戸の直接のつながりを持つのはイエスのみで、ペトロらも救われないと何度も厳しく書かれている。特に、「(イエスは)キリスト」だとペテロが言った時、イエスは「サタン」と呼ぶシーンがある。ペテロは「神のことを思わず人のことを思っている。」と延べ、神を大切にしているようだが、人間的配慮しかしていない態度がサタン的だというわけで、エレサレム教会へのヘレニストの立場と重なってくるわけだ。
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