2026年5月31日日曜日

書評 吉村昭 『海の祭礼』Ⅶ

吉村昭 『海の祭礼』の書評、最終回。この後、全く妥協しないハリスが来て、幕府は大いに手を焼く。日米修好通商条約が結ばれる。この裏にも英仏が清と不平等な天津条約を結んだという情報を伝え、英仏は軍事力を背景に過酷な条約を日本と結ぶだろう、よってアメリカと早く条約を結ぶべきだ、という恫喝をした。とはいえ、この条約も不平等条約であった。

以後、幕府は英仏とも通商条約を結んでいくが、各国の思惑が入り乱れ、しかも攘夷運動が激化し、安政の大獄から桜田門外の変、朝廷との確執などまさに開国後の幕府は散々である。

これらの外交交渉の最前線で森山は精励してきた。本書では、森山の姿を描いている。妻子のいる長崎に変えることは許されず、やむをえずまとまった金を送り離別する。周囲から妻帯を勧められ再婚する。生麦事件から薩英戦争の事件にも奔走、外国奉行通弁役頭取として勘定奉行・小栗上野介らと、輸出入関税率改定交渉(天津条約並みに輸入税5%に下げられた)にも関わっていく。

幕府が倒れた後、新政府から仕官を求められたが、森山は応じなかった。弟子の福地源一郎は大蔵省に訳官としてしたが、あまりに濃い15年間で疲れ果てていた。狭い庭を見て過ごしていた。すでに50歳になっていた。明治4年冬に風をひき翌年、ボロボロになって死去した。

ところで、森山に英語を教えたもうひとりの主人公・ラナルド・マクドナルドは、日本を離れた後、香港からシンガポールへ行き、イギリス船の船員となったがインド沖で難破、その後オーストラリアで金鉱掘りに従事、ヨーロッパを回って、アメリカに戻った。すでに父は亡くなっており、牧場、商店、運送業を経営したが新しい事業に失敗し、転々と職業をかえ、故郷のコロンビア川流域に定住し、明治27年に姪の家で病死した。別れの言葉は「ソイナラ(さようなら)」であったという。日本での覚書は彼の死後に出版された。

…森山の壮絶な15年間を思うと、ボロボロになるのもよくわかる。私自身、教師生活を46年間務めてきた。森山のような国事に関わるようなプレッシャーとは比較にならないが、「精励」という語彙があてはまると思っている。さて、教師をやめたら、森山のようにボロボロになるかもしれない。その兆候はすでにある。(笑)

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