初期のキリスト教会では、割礼を始めとしたユダヤ律法との折り合いが問題化していた。パウロは割礼を否定しており、ユダヤ人キリスト教徒との軋轢があった。多くのユダヤ人キリスト教徒は、自分たちをユダヤ教の一分派と考えていた中で、ヨハネ福音書を記した教団では、ユダヤ教から迫害・排斥(ローマに神殿を破壊され、異端と見なされたキリスト者共同体を正式に破門し、シナゴーグでは彼らへの呪いの言葉を唱えるようになった。)され、ユダヤ教からの分離過程が進んでいたという背景がある。
よって、ヨハネ福音書では、イエスを認めないユダヤ人に対し、極めて批判的である。(何度も”ユダヤ人”という語が出てくる。)イエスをキリストとして、律法の無力化を主張しているわけである。ヨハネの福音書の特徴にはこういった背景があるのである。
さて、正教会がヨハネ福音書を重視する理由について、当然ながらカトリックの著者は記していない。とりあえずAIで検索してみた。(神戸学院大学のリボジトリを参考にしているようであるが、現在メンテナンス中であった。後日確認するつもりである。)AIによると、キリストの「神性」と人間の「神化」を最も深く描いているから、というのが端的な回答であった。福音書の記者であるヨハネを正教会では「神学者」と呼び最高の敬意を払っているとのこと。
キリストの「神性」については、冒頭でキリストこそ「神の言葉(ロゴス)である。」と明確に宣言している。また人間の「神化」については、人間が神の生命にあづかり神のようになるという正教会の究極の目標にとって、この福音書が抽象的かつ詩的な表現で、理性的理解を超えた「神との合一」という霊的な記述が見られることが挙げられる。
…やはり、「神性」と「神化」が最大のポイントであった。納得である。正教会では、イースターの礼拝でヨハネ福音書の冒頭が必ず読まれる理由でもある。



0 件のコメント:
コメントを投稿