2023年12月18日月曜日

歴史の中の新約聖書 Ⅱ

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「歴史の中の新約聖書」のエントリー第2回目。まずは、イエスの時代のユダヤ教の3つの流れについての確認。サドカイ派は神殿の祭司で、十分の一税のおかげで恒常的に経済的豊かさを享受していた。ファリサイ派は、祭司の子しか祭司にはなれないので、唯一ユダヤ社会で出世するには律法学者になるしかなく、シナゴーグでラビの仕事を担っていた。律法遵守の監視役でもある。律法違反の行為を行ったイエスに論争を挑んだのはこのファリサイ派である。この2つの流れに対し、エッセネ派は、荒野で厳しい生活を追求した者たちであった。

前回のユダヤ教の救いに関して否定的な著者の論理で行けば、サドカイ派・ファリサイ派について律法をだいたいのところで尊重する一般の人々は救われない。エッセネ派は、だからこそ荒野で修行して神に救いを求めているが、これは人間が神に救えと命令しているようなもので救いを得るには十分ではないわけで、この頃(紀元前2~紀元後2世紀)「黙示思想」が生まれる。黙示よは、アポカリプスの訳で、隠れている神が現れて力を発揮すること。旧約では「ダニエル書」、新約では「ヨハネ黙示録」がそのテキストである。

「罪」の状態、「悪」の状態にあるならば、どうすれば「義」になるのかということをユダヤ教では注目していたのだが、結局人間の側からはどうしようもない状態だった。ここにイエスが登場する。神が救う者を救う。人間の側が罪の状態にあるかどうかなどとは、いわば関係なく、神は救いの業を行うことが出来る。そして実際に神が救いの業を始めている。イエスにおいて始められた。こうしたことを主張したのである。イエスの意義はここにあって、長い間動かなかった神が、イエスにおいてまず、神と人との実質的関係が生じるようになった。マルコの福音書の冒頭近く、ヨハネから洗礼を受けた場面で、天が裂け霊が鳩のように下ってくるのを見た。すると天から声があった。「あなたは私の愛する子、あなたにおいて私は喜ぶ。」イエスに聖霊が与えられたわけだが、重要なことは神はイエスしか救わないということだと加藤先生は言う。イエスは、神と直接に結びついているゆえに、神殿や律法を尊重する必要はないということになる。

…なるほど。さすが加藤先生の論は深い。

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