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マタイの福音書は、ユダヤ戦争後の80年代に書かれたらしい。マタイ福音書の立場は一言で言えば「新掟主義」で、ユダヤの律法に代わる優れたもので、全人類に与えられている。この掟を守ることが救いの条件であるという立場だと加藤先生は言う。末尾に、復活したイエスが十一人の弟子に命令(大伝道命令)を与えるシーンがあり、立場が端的に示されている。全人類をイエスの弟子とすること、具体的は洗礼と、「あなたたちに教えておいたことを全て守る」がなれなければならない。この「あなたたちに教えておいたこと」が掟である。マタイの福音書では、山上の垂訓など5つのイエスの演説(10遣わされるもの/13毒麦のたとえ/18協会における人間関係/24オリーブ山の説教)が記されている。山上の垂訓の有名な言葉、「貧しいものは幸いである。」の巻頭には、日本語では「心の」がつくが、加藤先生はギリシア語の性格な意味は「霊の」であって、聖霊がないものは幸い(=神との関係で問題がない=救われている)ということになる。結論的には、マタイ福音書では、イエス以外の者については聖霊を受けないのがよい。イエスの掟を守ればよいということになる。
ただ、この掟は守れるようなものではない。他の新約聖書の文書やキリスト教会の歴史からみても、このマタイ福音書の立場は絶対的なものではなく、相対化していると加藤先生は結論づけている。
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