2023年1月7日土曜日

ニューイングランドの危機

「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」のエントリー第6回目。マサチューセッツ植民地の南に、狭いロードアイランド植民地(RI)があった。ここを創設したロジャー・ウィリアムズは、分離派だったがマサチューセッツの聖徒の神権政治を批判、政府と宗教は分離されるべきとした。1640年、良心の自由を守るという文書に39名が署名、クエーカー教徒やバプティストなどマサチューセッツ植民地で迫害を受けた人々がやってきた。ペンシルベニア以前の宗教寛容の地であったわけだ。このロードアイランド植民地を含めニューイングランド植民地に二度の危機が訪れる。

1675年、ネイティブ・アメリカンが、半数以上のタウンを攻撃してきた。土地を巡る争いが沸点に達したのである。12の町が破壊され、30の町が放棄された。マサチューセッツ、プリマス、コネチカットは連合し、味方になったネイティブ・アメリカンと共に反撃した。ネイティブ・アメリカンの多くが死亡し、改宗した者も3/4が死亡した。

第二の危機は、1680年代の半ばに、マサチューセッツ、コネティカット、ロードアイランドの特許状が取り消されたことである。カトリックのジェームズ2世の「王領・イングランド」に編成された。知事が派遣されてきて、ニューイングランドの宗教制度をやめ、植民地からの様々な要求も認めないとした。その後、名誉革命が起こり、ジェームズ2世は亡命した。ニューイングランドは沸き返った。しかし、その後の交渉は、オレンジ公ウィレムがオランダ人だったのにもかかわらず、思いどおりに進まない。会衆派の優位は認められたが、選挙権は教会の正会員から切り離され、財産を基準に与えられることになった。要するに会衆派の神権政治は破綻したのである。

ところで、本国では会衆派は人気がなかった。イングランドの国教会の外側にいた人々は大部分が長老派で、国教会が2・3の手直しをすれば戻っても良いと考えていた。スコットランドの長老派は、ニューイングランドの会衆派とは合わなかった。北アイルランドやスコットランドからの移民は、ニューイングランドを避けてきた。1688年、イングランドの長老派・チャールズ・モートンが、1636年設立のハーバード大学のフェロー(研究職)となった。国教会と長老派の教義の融合が見られたわけだ。1696年、インクリース・メイザー学長は、長老派が増えすぎて、背教のおそれを指摘する。インクリース・メイザーは後に職を追われ、長老派的リベラル化が進む。保守的な会衆派の人々は、コネチカット(CT)にイェール大学を1701年に設立した。コネチカットは、1700年時点で、マサチューセッツの半分、人口3万人。長老派もいて、神権政治ではなく選挙で知事を選んでいた。教会は、会衆派寄りだったり長老派寄りだったりで、このやり方を長老会衆主義という。

…こういうアメリカ植民地の宗教政策と、清教徒革命・名誉革命の時期の本国の政治的宗教的大変化との関わりに、これまで目を向けたことはなかった。またロードアイランドやコネチカットの政教分離政策など、実に勉強になるのである。ちなみに、RIのロジャー・ウィリアムズは、ネイティブ・アメリカンに妥当な価格で土地を購入することを主張した人でもあることを明記しておこう。

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