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ヴァージニアでは、前述のように国教会設立を法で定めたが、本国(宗教税や他の宗派の排斥)のようにはいかなかった。ニューイングランドでは、1686年にボストンのキングス・チャペル(画像参照)が、ニューポートにトリニティ教会が建てられた。牧師の給料は、本国政府の外郭団体(SPG)から受け取っていた。会衆派に対抗して、このように勧誘されていた。「儀式が立派で、(回心が必要な会衆派と違い)聖餐にすぐあずかれて、規律もゆるい。」国教会は、17世紀のニューイングランドでは、カトリックのような存在だったのだ。中部でも、法の保護をうけた特別な存在で、反感を持つ人も多かった。しかし1680年から1730年にかけて信徒数は増えていく。これは、SPGのおかげであるといってよい。1727年には23もの教会をニュージャージー、デラウェア、フィラデルフィアに建てている。
植民地のエリートには、国教会は魅力的だった。フィラデルフィアのクライスト・チャーチや、ニューヨークのトリニティ・チャーチは、地位をみせびらかすのにちょうど良く、クエーカーや長老派、オランダ改革はからの改宗者も増えた。しかし、牧師の不足、監督制なのに監督(主教)の不在といった問題を抱えていた。牧師の養成のため、ペンシルベニアの長老派は1726年からログ・カレッジ(丸太小屋大学)を運営、その発展として1746年にニュージャージーにカレッジ(後のプリンストン大学)を開校した。国教会も負けじと、1754年キングス・カレッジ(後のコロンビア大学)を開校した。
国教会は、各地で抑圧者の権化のようなイメージを持たれ、異議申し立てをする人々(様々な各宗派)が増える。これが、独立戦争時に関係してくる。1776年の兵員募集の際、ヴァージニアで最も国教会から圧政を受けていたバプティストは、(独立して、政府・国教会からの)「宗教的寛容」ではなく「宗教的自由」でなければだめだと愛国派として参戦した。
1784年から5年にかけて独立戦争後行われた公開の大討論会の結果、政府が宗教活動に資金を直接拠出することは禁止になった。1787年に憲法起草の会合があったときも、ヴァージニアは宗教の自由を一番熱心に主張した。他の州もそれに従った。1791年の合衆国憲法修第一条は、公定教会をなしにすると定めた。イングランド国教会は、アメリカではただの一宗派になったわけだ。しかも名称まで変わった。エピスコパル(ギリシア語でbishop:司教を意味する。)となり、この司教を民主的に選挙で選ぶようになった。
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