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ブラジルを追われたユダヤ人の大部分は本国に戻ったが、23家族がニューアムステルダムに移った。ニューアムステルダムのオランダ改革派の牧師は、ユダヤ人の求めに応じなかった。当時、ルター派は私的礼拝のみ、クエーカーは違法であったので、ユダヤ人に自由を与えると、ルター派やカトリックにも自由を与えなければならなかったからである。しかし、西インド会社は株主のユダヤ人の陳情を受け、ユダヤ人の旅行、貿易、生活、滞在の自由と、家庭内の礼拝を許すよう現地長官に命じた。平穏に合法に暮らしている限り、クエーカーにも自由を与えた。
ニューアムステルダムは、1664年イギリス領となった。スファラディが先に来ていたので、アシュケナジもスファラディ式の礼拝を仲良く行った。1730年、ニューヨークにシナゴーグ(セントラルシナゴーグ:画像参照)が出来、シナゴーグ共同体となった。1763年、ニューポート(RI)にもシナゴーグが出来た。この他にもサバンナ(GA)、チャールストン(SC)、フィラデルフィア(PA)、リッチモンド(VA)などの港町で貿易に従事しながら、シナゴーグ中心のユダヤ人共同体が形成されていく。ユダヤ教徒はキリスト教徒と親しく交わり仕事をするが、通婚率は10%くらいで、共同体から離れている方が、また男性の方が率は高い。しかし、独立革命までは、二級市民で、ヴァージニア、コネチカット、メリーランドでは、投票権はなく、公職につく宣誓からも排除されていた。書籍の出版も許されず1773年のラビの説教が植民地期の唯一の出版で、アメリカ植民地人の200人に1人はユダヤ人だったが港町に集まっていたのと、文化的な表現の制限故、独立革命前夜までユダヤ教の文化は人々の目に触れなかった。
独立革命時、ニューヨークのユダヤ人(数百家族)は王党派と革命派に分かれたが結局大半がアメリカを選んだ。革命の結果、宗教の自由が確かなものになった。ニューヨークでは1777年、宗教の自由が「人類全て」に拡大され、キリスト教ではくてもよくなった。ただし、宣誓の際にはカトリックに反対することを誓う必要があった。…これは実に興味深い話である。アイリッシュやイタリアーノが多い現在では考えられない。
1779年起草、1785年法律として成立した、ジェファーソンによる「宗教の自由法(Act for Religious Freedam)」は、さらに確かな一歩となった。ただし、ユダヤ人はこうした偉大な改革に少しも関与していない。大陸会議でも、各州の討論でもユダヤ教については一切触れられなかった。
…初渡米時、ウィスコンシンのミルウォーキーの博物館で、様々な民族の移民展示があって、私はユダヤ人のブースを懸命にスケッチしていたのを思い出した。あの頃から興味を持っていたのだ。
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