2023年1月6日金曜日

橋爪大三郎の「回心と洗礼」考

https://www.mustardseedosaka.com/baptism-guide
「アメリカの教会 キリスト教国家の歴史と本質」のエントリー、第5回目は、カルヴァン派の予定説に関わる回心と洗礼の問題について、である。予定説は、誰を救い、誰を救わないか、神が予め決めているという考え方である。善い行いをしたから救われるということであるならば、人間が自分を救ったことになってしまう。絶対で全能である神の原則に反するではないか、というわけで、キリスト教のロジックを突き詰めた考え方である。だからといって、救われるかどうかを知らないのは不安である。自分が救われると確信して世俗内禁欲を実践する信仰の毎日を過ごす人は、外見からもわかる。彼らを「視える聖徒」と呼ぶ。ピューリタン社会の信仰共同体は、視える聖徒の集合体なのである。

さて、「回心」は、それまで信仰の確信が持てなくてウジウジしていた人が、手袋がひっくり返るように生まれ変わって、新しい信仰深い人間になること、一瞬の劇的な変化である。回心することによって視える聖徒の仲間入りができるということになる。

ところで「洗礼」とは、キリスト教徒の加入儀礼である。洗礼を受けていない人間はキリスト教徒ではない。福音書によると、イエスはヨハネに洗礼を受けているが、悔い改め(神への従順)のしるしである。イエスが誰かに洗礼を授けたという記述はない。使徒言行録には、パウロがイエスの幻を見るくだりがある。パウロはショックで目が見えなくなり、慌てて近くで洗礼を受けた。イエス・キリストに帰依する人々が洗礼を受ける習慣がすでにあって、現場近くにも信徒がいたことがわかる。以来、ユダヤ教徒の割礼のような幼児洗礼の儀礼が広まった。幼児洗礼は、本人の意志と関係がない。教会にとってはメンバー数の維持、家族にとっては、子供のうちに死んでも神の恵みが与えられる故に都合が良かった。

洗礼は、カトリックの七つの秘蹟(サクラメント:カリフォルニア州の州都の名称にもなっている。洗礼・堅信・告解・聖餐・叙階・結婚・終油)のひとつである。聖書に根拠がないと秘蹟を否定するルター派もカルヴァン派も、幼児洗礼だけは認めている。洗礼は、本人の意志ではなく、神のわざ、恵みが聖霊によって本に及ぶ故に幼児も問題ない、ということである。

当時のマサチューセッツ植民地のほとんどだったカルヴァン派の会衆派は、回心を洗礼よりも重視した。が、、幼児洗礼を無視できなかった。前回のエントリーで、1662年のシノッドが洗礼について出した結論は「半端契約」と呼ばれている。現在会衆派は少数派に転落しているが、この回心を重視することは、アメリカのキリスト教の伝統となっている。覚醒の波(回心の連鎖)は何回もアメリカを襲ったのである。洗礼は教会制度の一部であるが、回心は教会制度をはみ出すエネルギーを秘めているわけだ。ちなみに、現在プロテスタントの中では最大のバプティストは、幼児洗礼を認めない。成人の洗礼が生まれ変わりの儀式であるとする立場だ。洗礼と回心を一致させようとしているわけで、これもピューリタンの影響といえるだろう。彼らピューリタンは増加し続け、17世紀の終わりには全植民地の40%になる。

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