2022年10月3日月曜日

カリーニングラードの話

先日市立図書館で「世界まちかど地政学」を借りてきた。以前読んだのは続編で、これが最初の1冊である。今日は、その第1章、カリーニングラードの話についてエントリーしたいと思う。カリーニングラードは、バルト三国の南に位置するロシアの飛び地である。

そもそもここは、ドイツ騎士団が開拓し、プロイセン王国発祥の地であり、ケーニヒスベルグがあったところ。ケーニヒスベルグとくれば、かのカントが一生を過ごした所である。実際、カント島という名の中洲があるらしい。(オイラーの有名なケーニヒスベルグの7つ橋(位相幾何学の問題)は、このカント島らしい。)ここには、ドイツが寄付して再建されたケーニヒスベルグ大聖堂がある。宗派が気になったので調べてみると、そもそもはカトリック教会だったが、ルター派に。さらにロシア正教の2つの礼拝堂があるとのこと。やはり…である。ここにはカントの霊廟があり、1時間に四回、ベートーヴェンの運命の第5を4つの鐘が鳴らすらしい。おお、ドイツらしい、という話ではないか。
https://twitter.com/hidelcondorpasa/status/1232860493544509440
とはいえ、今は著者によると「社会趣味」(息子が言うところの社会主義的な建築物が多い)の街になっている。ケーニヒスベルグはWWⅡのイギリス軍の空襲と、ソ連赤軍の戦いで見るも無惨に消え去ったらしい。今更ながら当時の写真パネルが街中にいくつも展示されているのが鬼気迫る雰囲気だと著者は記している。この包囲戦で、4~5万人のドイツ軍将兵と民間人が死亡、捕虜として8~9万人がシベリアに送られ多くが帰還できずだった。ソ連側も6万人の死傷者を出している。陥落後12万人のドイツ人民間人が残されたが、その多くが病気や飢餓、暴行によって死亡し、2年後に生き残って東ドイツに追放されたのはわずか2万人だったという。レニングラード(現サンクトペテルブルグ)包囲戦では、67万人のロシア人犠牲者が出ているから、これは軽いものだと考えているのかもしれない、と著者。ちなみに、東プロイセンに住んでいた1.3万人のユダヤ人もナチスにより虐殺されている。

…WWⅡでは、民族浄化があたりまえのように行われていたわけだ。今は、バルト海のロシア海軍基地があるカリーニングラードの人口は、他の地から移住してきたロシア人が85%、これにウクライナ人・ベラルーシ人が住んでいるらしい。なにか、先日、ロシアに編入された東ウクライナを彷彿とさせる。

…地続きのヨーロッパのこういった移民や民族浄化というのは、島国日本ではなかなか実感しにくい。著者は北方領土を考える上で、カリーニングラードのことを知らずには語れないだろうと記している。同感である。

…大哲学者・カントの「恒久平和のために」が書かれた地は、多くの戦争犠牲者を出して、今こうなってしまっているわけだ。なんともやるせない話である。

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