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1884年(明治17年)、半島で甲申事変が起こる。開化党の金玉均らが、先に起った壬午の軍乱の首謀者として大院君を清国内に連れ去り拉致したことに対し、清軍がベトナムに移動したすきを突いてクーデターを起こしたのである。
頭山は、金と会い、彼の才と人物を見抜き、以後、身辺の庇護者として生活資金の提供者として支えた。これに対し、同じ支援者であった、福沢諭吉は甲申事変失敗後は、「誘導するに値しない国」と見限り、金の亡命数カ月後に「脱亜論」を発表している。福沢は、「日本が清国、朝鮮と同じような国だと見られるのは一大不幸だ。これらの悪友との交友を謝絶せよ。」と厳しく指摘している。(今となっては、福沢の脱亜論を完全否定することは難しいと私も思う。)
さて、その後頭山は、革命家・孫文、その弟子蒋介石とも友情を結ぶ。福沢のような冷徹な態度は取っていない。孫文が革命に何度も失敗し、来日するたびに激励し支援の手を差し伸べている。孫文が中華民国の大統領に就任した時、頭山と犬養毅が国賓級のゲストとして招かれている。その後も袁世凱に追われ、来日した際も頭山に匿われた。ついに第三革命を成功させた時、神戸で孫文と会った頭山は、二十一箇条の要求に強く反対しつつも、孫文の革命政権は不安定であり、清の故郷である満蒙では各列強が糸を引く軍閥が跋扈していた。故に、日露戦争以来の日本の権益を手放すのは(孫文の中華民国にとって)危険だと述べたようである。(…たしかに、するどい洞察力である。)
孫文は会見3日後に「日本はこれから、世界の文化の前途に対して、西方覇道の番犬になるのか、東方主義のの干城となるのかは、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶことにかかっている。」と所信表明した。これに対し、頭山は、「南州先生が生きておられたら、日支の連携なんぞ問題ではなかっただろう。アジアの基礎はびくともしないものになっていたに相違ない。そう思うとイギリスあたりの番犬になって鼻をうごめかしてお椀の飯を食っている様が情けなくてたまらぬ。」と雑誌のインタヴューで答えている。二人は同じ「大アジア主義」の地平に立っていたのだ。
頭山は、インドの革命家やアフガニスタン、さらにはエチオピアなどの人々も支援している。当然ながら、同じ視点である。孫文の後継者・蔣介石については、次回のエントリーに譲ろうと思う。
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