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頭山は、上京し内相兼蔵相・松方正義、前首相・枢密院議長の伊藤博文に直談判し、反対の尽力を誓わせた。しかし、閣議で黒田清隆首相は断行の言を吐く。どうやら黒田は力量在る大隈に内閣を任せきっていたようだ。肥前出身の大隈は大隈で、薩長政権に対抗するため命を張った勝負に出たようだ。
上京した来島に、頭山は「大隈に改正はさせぬ。」と結論だけ言った。「で、どのような策を取られますか。」「策?そんなもんはない。」「この上は…」「うむ。」「来島よ。天下のことは真の心をもってすべきだし、また誠の心によらんかったら、成りもせん。誠の心をもってすれば、たとえ仕損じても、意気に感じた者が後から後から立ち上がってくる。そげなもんたい。」と言った。
1989年10月18日、来島はフロックコートに山高帽の紳士然として霞が関の外務省前に現れ。閣議を終えて大隈の乗った馬車が来た。5~6mほどの距離からから爆裂弾を投げ車体を粉砕、大隈が倒れたのを確認して門外へ出た。
皇居に向かって一礼し、右手を高々と上げた。見届け役の月成光への合図である。続いて懐中から短刀を取り出し、鞘を払い、頸部に突き刺した。前方に思い切り引いて首を切った。そこはかつて福岡・黒田藩の藩邸があった場所であった。
大隈は、右足の大腿部の上から2/3を残して切断し、一命を取りとめた。もはや黒田首相を援けて条約改正断行を唱える者はなく各大臣は辞表を提出、内閣は総辞職した。国論に対して一人不屈の決意で推進しようとした大隈は来島の一撃で、文字通り「失脚」したのである。
来島の墓は、頭山の筆による。その横に「暗夜之灯」と記された常夜灯がある。これは、この件で来島に長文の手紙をもらいながら「世の中も我もかくこそ老い果てぬ 言で心になげきこそすれ」と何も出来なかった枢密院顧問間・勝海舟の文字であるそうだ。
ちなみに、この事件は、陰湿なテロリズムではなく、武士同士の意地の張り合い、果たし合いだったと筆者は見る。事実、両者に個人的な恨みつらみは一切なく、大隈は後日、来島を称えているし、玄洋社が来島の追悼会を開くたびに、弔詞や供物を送り、墓参りもしている。
頭山はこう言っている。「来島は大隈を殺すのが目的ではなかった。条約改正を殺すのが目的だった」と。
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