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玄洋社というか頭山満の人権論は、国家の独立があってこそ保全できると考えていた。幕末維新で植民地支配こそ免れたものの、不平等条約の改正に力を注ぐことになる。四民平等となったのだから、農工商を士の位まで意識を高めて平等にするという武士道民権論であった。
1887年(明治20年)今日のエントリーの中心人物・中江兆民と頭山が会う。それ以前にも中江は前回エントリーした来島恒喜を主催する仏文塾で教えていたし、当時の玄洋社・社長の平岡浩太郎と共に上海に行っている。初対面で、頭山を気に入った中江は、以来交友を続け、中江の死まで続く。中江は、頭山を「大人長者の風あり。かつ今の世、古の武士道を存して全なき者は独り君あるのみ。」と評している。
中江は、内田良平の黒龍会にも賛助会員となっているし、日露戦争前に対露強硬派がつくった国民同盟会にも弟子である幸徳秋水の反対を押し切って参加した。
明治34年中江は喉頭がんにかかり臥せる。頭山が駆けつけた。(声がでないので)石盤に頭山の名を書き、会いたがっていたと妻が言ったらしい。中江はがっしりと手を握りしめ涙を流して喜んだ。石盤に、「伊藤、山縣ダメ、後ノ事タノム」と記した。頭山がうんうんとうなづくと中江はにっこり笑ったという。
「昭和平成の人から見れば、右翼の源流と左翼の元祖の交友ということになる。当時の二人にはそういう意識などなく、ただひとえに欧米諸国の脅威から日本の独立を守り、国力を強化しようという愛国の同志であった。」と著者は書いている。植木枝盛との交友も含めてまさに昭和の人である私にとっても驚きの事実であった。
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