さて、広田弘毅のことは少しおいて、蔣介石と頭山の交友について記したい。蔣介石は、北伐を行い、第一次国共合作を上海クーデターで潰した。この時、国民党左派の汪兆銘(武漢政府)と蔣介石の右派(南京政府)に分裂する。「余は党のために身命を惜しむものではない。」と蔣は国民党が一つになるためにと下野し、昭和2年に来日する。旅装も解かずに頭山邸に来た。隣家で起居し、大アジア主義について教えを乞うたという。孫文を支援してきた松井石根(A級戦犯・絞首刑)や田中義一首相も訪れ、蔣の中国統一支持と満州の日本の権益保護が合意された。田中義一は、満州は張作霖に委ねようとしていたらしいが、関東軍によって爆殺され、田中ー蔣ラインの合意は田中内閣の総辞職により消えた。
頭山満と蔣介石 https://kknews.cc/history/ep6re4q.html |
昭和16年、東久邇宮から「重慶に行って蔣介石と会い和平にもちこんでもらえないか。」と依頼を受ける。緒方竹虎、中野正剛、そして広田弘毅を呼集、緒方には蔣介石への連絡と会見の設定、事後の紙面でのキャンペーン、中野には国会対策、広田には重臣対策を指示した。「頭山翁とならば会いましょう。」との伝言が伝わり、最後のご奉公(86歳)が実現するかにみえたが、近衛内閣が東條内閣となり「その様な重要な問題を陸相兼務の総理である私に何の相談もなく勝手に進めてもらっては困る。」東久邇宮が説明しようとしても「今はそんな時期ではありません」と協議さえさせなかった。
広田は、重臣会議で、近衛首相の後継に東久邇宮を推挙したが、すでに軍がこの和平案を察知しており、木戸幸一主導の重臣は誰も賛成しなかった。(思うに、後の中野正剛の反東條の姿勢はこの顛末が重要な意味合いを持っているのではないかと私は思う。ちなみに木戸は、東京裁判で自己弁護に走り絞首刑を免れている。黙する広田への批判的な言も残している。)
頭山は、昭和19年10月亡くなった。徳富蘇峰、広田弘毅が弔辞を述べ、無位無官の者に対し異例の、天皇陛下より勅使が使わされ祭祀料が下賜された。フィリピン、インドネシアそして中国からも多くの弔電が届いた。
「東京裁判で、広田は一切の抗弁をせず、沈黙を守ったが、その理由の一つは、頭山ら玄洋社の先輩たちに迷惑が及ばぬよう配慮したゆえではなかっただろうか。」と著者は書いている。実際、広田は、玄洋社を過激な右翼組織と見るGHQの調査分析課長の影響もあって、絞首刑の判決を受けた可能性が高い。このような頭山・玄洋社を巡る和平案の試みの事実は、その後GHQによって、歴史から抹殺されたわけだ。
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