頭山満伝を読んで、尊王攘夷の志士の攘夷の系譜(西欧列強に対する対抗心と島津斉彬・西郷隆盛の大アジア主義)を強く感じるとともに、武士道、それも幕末に高揚した陽明学の徒としての意気を強く感じた。まさに西郷が西南の役で死んだ後、その精神をを継いだ人といえる。
ここで、陽明学について考えてみようと思う。朱子学は、政治学、存在論(理気二元論)、注釈学(「四書集注」等)、倫理学(性即理説)、方法論(居敬窮理説)など全てを包括する総合的な哲学体系である。陽明学は、そのうちの倫理学及び方法論的側面の革新であるといえる。(四書は論語・孟子と五経の「礼記」から朱子が注釈した大学・中庸)
朱子学の倫理学は、「性即理」であるが、陽明学は「心即理」である。朱子学では、理(ものすごく安易に言えばプラトンのイデアのようなもの)と気(物質的要素)の二元論で、これを人間に当てはめたのが「性即理」である。人間の心そのものは天が授けた理そのもの(孟子的性善説)である(だから仁や義として具現化できる)が、気にふれると、情や欲が発生する。よって、心を本然の性(理)に戻す必要がある(=格物致知)と説く。
これに対し、陽明学では、情や欲を含めた人間の心がそのまま理であるとする。理は、心に立ち現れたものを実践にうつしてこそ現れる。(=知行合一)人間には先天的に正しさを判断する理が存在する能力(良知)があるゆえに、これを完全に発揮する(致良知)ことで、理すなわち善を実現できると説いた。
王陽明という人は、34歳のときに宦官の専横を批判、皇帝に上奏し、逆恨みで貴州に飛ばされている。ここで思索を続け、「心即理」に到達した。よって、この上奏事件は「良知」による行動で善であったということになる。このような意図があったのかどうかはわからないが、陽明学には反体制的な理論と結びつく要因がある。
幕末には、大塩平八郎、西郷を始め、佐久間象山、吉田松陰、河井継之助といった魅力ある人物の名が連なる。維新後は、三宅雪嶺が「王陽明」を著した。徳富蘇峰や幸徳秋水も影響を受けているとされている。安岡正篤も、東大卒業時に「王陽明研究」を出版、陽明学を「帝王学」としている。ここ(Wikipedia)にも頭山満の名は出てこない。
とはいえ、昭和まで生き残った幕末・尊王攘夷の志士であり、陽明学の徒である頭山満の存在は、たとえ歴史から抹殺されているとはいえ、大きいと思う。
少なくとも、東條某のように、戦犯として逮捕される寸前に、洋間で椅子に座り、米兵から没収したコルト拳銃で胸を打ち、ビビって急所を外し出血したが生き残ってしまった小心者ではない。その時の東條某の血まみれの洋間の写真(白黒)が、拡大するだけ拡大されて、ヴァージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館に今も展示されている。東條某の無様な自決未遂は、日本人として恥ずかしい限りであった。中野正剛の最後を見よ。来島恒喜の最後を見よ。広田弘毅の黙したままの最後を見よ。
今の政治家(右左関係なく)に、武士道を奉じた陽明学の徒はいないのだろうか。
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