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ウマルの時代、642年ササン朝ペルシアをニハ―ヴァントの戦いで壊滅に追い込みイランを支配下におく。シリアやエジプトへの拡大では、ビザンツ帝国内でその地の単性論者やユダヤ教徒が弾圧されていて信仰の自由と自治をを認めるイスラムの支配を歓迎していたことも大きい。
ムハンマドと父祖を同じくクライッシュ族の名門ウマイヤ家のシリア総督で、第3代カリフ・ウスマーンの従弟であるムアーウィアが、アリーのカリフ就任に異を唱え(ウスマーンの暗殺への関与を疑った)、660年カリフを名乗り、アリーと内戦となる。ムハンマドの3番目の妻で初代カリフアブー=バクルの娘であるアーイシャらとアリーは戦い(ラクダの戦い)勝利したが、657年スィッフーンの戦いで妥協(和平協議)したアリーを、661年ハワーリジュ派は「裁定は神のみに属す」と反発、アリーの陣営を離脱、アリーを暗殺するに至る。アリーの長男・ハサンは多額の年金と引き換えにカリフの継承を辞退メディナに隠棲する。ムアーウィアはダマスクスで、ほとんどのムスリムからの忠誠の誓を受け、正式にカリフとして認められた。これがウマイヤ朝である。
ムアーウィアの死後、その息子ヤズィード1世がカリフを継承した。(世襲継承なので王朝と見なされる。)カリフ位については、アリーの次男フサインやウマルの子などが推されていた。フサインは70人余りの軍勢でウマイヤ朝4000に向かい、フサインは殺害される。これがカルバラーの悲劇で、シーア派誕生の契機となる。ヤズィード1世は3年後死去。その息子ムアーウィア2世がカリフとなったが20日ほどで死去。この間、683年メッカでイブン・アッズバイル(父はムハンマドの最初の妻の甥、母がアブー=バクルの長女)がムアーウィア2世のカリフ位を認めず、カリフ即位を宣言。ウマイヤ家に不満を抱く、シリア・イラク・エジプトなどヨルダン以外のムスリムが忠誠を誓い、2人のカリフが存在することになり、10年間の第二次内乱が起こる。685年、シーア派のムフタール・アッ=サカフィーがアリーの息子でフサインの異母兄弟であるムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤをイマーム(スンニー派では宗教共同体の統率者/シーア派では最高指導者)でありマフディー(イスラムの文脈では救世主)であるとして担ぎ上げ、クーファ(イラク)にシーア派政権を樹立した。三つ巴の戦いとなる。まず、シーア派のムフタール軍が687年鎮圧された。ウマイヤ朝では、指示する部族会議でマルワーン(ウスマーンの従兄弟)がカリフ候補者として志願、選出された。以後、イブン・アッズバイルを支持する勢力を駆逐し、ウマイヤ朝の支配を回復した。以後、マルワーン家がウマイヤ朝の世襲カリフとなる。
マルワーン家の二代目カリフ・アブドゥルマリク。彼は中央集権化を進める。三代目のワリード1世は、北アフリカの征服活動を進め、ジブラルタル海峡を渡り西ゴート王国を破り、732年のトゥール・ポワティエの戦いで敗れるまで続いた。また、中央アジアではトルコの騎馬民族を破って、プハラやサマルカンドといったソグト人の都市国家、ホラズム王国を征服。この中央アジア征服の過程で、マワーリー(征服された人々:改宗民・被征服民・解放奴隷)非ムスリムの兵も軍に加えられ軍の非アラブ化が進むことになる。…つづく。
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