2022年1月7日金曜日

受験の世界史B 研鑽ー30

ナーランダー僧院 https://ameblo.jp/midnight-boyaki/entry-11778493789.html
山川の世界史Bの教科書では、さらにインドやアフリカ、東南アジアへのイスラム教の進出について書かれているのだが、ここでは、まずインドの歴史で私自身の空白部分を埋めたいと思う。倫理で、アーリア人の侵入やヴェーダ、バラモン教、仏教の成立などはやるので、クシャーナ朝・サータヴァーハナ朝、グプタ朝、ヴァルダナ朝あたりをまず研鑽しようと思う。

アショーカ王が活躍したマウリヤ朝は、彼の死後衰えて、小王朝が乱立する。その後、中央アジアで成立したクシャーナ朝がインド北部に勢力を伸ばす。

クシャーナ朝(1世紀-375年)匈奴に圧迫され中央アジアのバクトリアに定着した遊牧民で大月(だいげつ)氏と呼ばれるイラン系の王朝で、漢書や後漢書西域伝によれば5分割統治されていたのが統一され、これがクシャーナ朝となったようである。最も有名なのは、2世紀半ばのカニシカ王で、都をブルシャブラ(現在のペシャワール)に置き、仏教に帰依、厚く保護した。ガンダーラの仏教美術が栄えた。またナーガルジュナが活躍したのもこの頃。すなわち大乗仏教が生まれた。しかし、3世紀頃ササン朝と戦い敗北、支配下に置かれ滅亡する。

サータヴァーハナ朝(紀元前230年-220年)おそらくドラヴィダ系の王朝と考えられている。アショカ王滅後のマウリヤ朝の混乱時に勢力を増大し、1世紀までに中央インド随一の王国となったようである。バラモン教が中心だったが、仏教も保護下におかれていたようである。重要なのは、サータヴァーハナ朝はローマ帝国交易しており、この時期の遺跡からローマの貨幣が出土することである。

グプタ朝(320年-550年)4世紀に北インドを統一した王朝。チャンドラグプタ1世が建国。マウリヤ朝の初代王と同名で、首都(バータリプトラ)も同じ。マウリア朝の復活をさせたイメージを持つ。3代目のチャンドラグプタ2世(中国名:超日王)が最も有名。法顕(東晋の僧)が仏教を学びに来て、仏国記をまとめる。クシャーナ朝に対して、グプタ朝は様式がインド様式になり、アジャンタエローラの石窟が有名で、ナーランダー僧院が建立される。しかし、カースト制がしみついた農村や、都市部でも難解な教理故に、仏教衰退に繋がるのもこの頃。変わって、ヒンドゥー教が広まっていく。マヌ教典(カーストごとの生活指導書的なもの)がつくられる。サンスクリット文学もグプタ朝の文化で、詩人として有名なカーリダーサには、「シャクンタラー」やメーガドゥータなどの作品がある。さらに「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」の二大叙事詩もこの時代。一方、医学や数学十進法ゼロの観念)の進歩も見逃せない。

ヴァルダナ朝(606年―647年)グプタ朝は、5世紀の中期にエフタル(アフガニスタン東北部に勃興した遊牧民族国家)の侵略で滅亡した。7世紀にガンジス川流域にヴァルダナ朝が成立するが、国王はハルシャ=ヴァルダナ戒日王)の一代限り。玄奘がナーランダ僧院で仏教を学んだ。「大唐西域記」を記す。(西遊記のモデル)すでにこの頃は仏教が廃れていて、12世紀にはインドから消滅する。王が後継者を残さす没すると、アラナシュが王位を簒奪したが、唐の使節を捕らえ、吐蓄(とばん:7世紀から9世紀のチベットの統一王国)とリッチャヴィ王朝(ネパール最古のインド=アーリア系の王朝)の兵がインドに侵攻し、使節を救いアラナシュを捕虜として唐に連れ去る。この結果、王国は急速に分裂し北端はカシミールの勢力、東部はベンガル地方のバーラ朝、デカン高原のラーシュトラクータ朝、侵略勢力が北西部からインドに殺到、ヒンドスタン平原は群雄割拠に陥り、西方はラージプート族による諸王朝が建てられる。この時期をラージプート時代と称している。

10世紀、現在のアフガニスタンにガスナ朝が建てられ、インド侵入を繰り返したのは前述。(→研鑽26)12世紀にはガズナ朝を滅ぼしたゴール朝はインド北部まで支配下に置いた。1206年、インド初のイスラム王朝が成立する。奴隷王朝(インド・マムルーク朝)と呼ばれているが、これはゴール朝のマムルークの将軍アイバクを始祖とするからである。アイバクはデリーを建設した。以後のデリーを中心としたイスラム国家をまとめて、デリー・スルタン朝と呼ぶ。

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