2022年1月5日水曜日

受験の世界史B 研鑽ー28

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アイユーブ朝(1169年―1250年)は、エジプト、シリア、イエメンなどを支配したスンニー派のイスラム王朝で、ザンギ―朝(セルジューク朝の幼い君主の後見人・摂政たるアタベク政権で、十字軍に対しイスラム世界最初の組織的な抵抗を行った。)に仕えたクルド系のサラーフッディーン(サラディン)が始祖。1169年、サラディンはエジプトを支配するファーティマ朝の宰相となり、アッバース朝のカリフの権威を認め、支配の正当性を主張し、マリク(王)を称するとともに、シーア派王朝からスンニー派王朝に転換した。十字軍に主に相対したのはこのアイユーブ朝である。

ザンギー朝の第2代君主・ヌールッディーンとの対立やファーティマ朝のザンジュ(黒人奴隷兵)の内乱、イエメンへの遠征、ルーム・セルジューク朝との戦いなどを経て、ザンギ―朝をはじめ臣従させることに成功し、半独立から独立への道を拓いた。1187年、ヒッティーンの戦いでイェルサレム王国を破り、イェルサレムを包囲、身代金と引き換えに住民の安全を保障し開城した。岩のドーム(ウマイヤ朝第5代カリフ・マブドゥルマリクが建設を思いたち692年完成:カーバ神殿のあるメッカが当時シーア派に制圧されていたのが建設の動機と推測されている。11世紀に再建され、1554年にオスマン帝国のスレイマン1世がトルコ製タイルを張りなおした。)でイスラームの礼拝が行われる。カトリック信者は追放されたが、東方正教徒は町に残り、十字軍によって追放されていたユダヤ人が帰郷した。

アイユーブ朝にイェルサレムが占領され、イングランド王・リチャード3世、仏王フィリップ2世、神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世による第3回十字軍が派遣される。サラディンとリチャード1世の戦闘は1年以上に及んだが、膠着状態から1192年和平が結ばれ、キリスト教巡礼者の入場は許された。1193年、ダマスカスに凱旋後サラディンは死去、領土は王族によって分割され、それぞれの地域を支配する者が軍人にイクタ―を授与する体制になった。

その中で、サラディンの弟・アーディルが再統一し、サラディンがが帯びていなかったスルタンの称号を用いる。第4回十字軍で1204年ラテン帝国が建国された後、アーディルはヴェネツィアピサなどの都市国家との通商関係を継続するため、ナザレやラムラを割譲。その子・カーミルは第4.5回十字軍(→研鑽9)の時も和平を提案、「対外和平と国内再統一」を進めた。実際は十字軍は前述のように1221年ナイル川の氾濫に巻き込まれ壊滅した。その後もカミールは国内統一のためにも、神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世と同盟を結ぼうと書簡を交換、動物学に深い関心を持つ彼に、熊・猿。ヒトコブラクダ、アジア象(フリードリヒ2世が凱旋の時使用:クレモナの象)を贈った。(結局イェルサレムは返還されたが、フリードリヒ2世は批判されることになる。=第5回十字軍→研鑽10)

カミールの死後、国家の統一が再び失われた。第6回十字軍では、ルイ9世を捕虜にするが、1250年君主に即位したトゥーラン・シャーが暗殺され、アイユーブ朝は断絶、マルムーク朝に取って代わられる。

ちなみに、スンニー派に大転換したアイユーブ朝では、現在のマレーシアのシャーフィイー学派が主要な地位を占めていた。…マルムーク朝のことは次回の研鑽で。

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