2022年1月31日月曜日

受験の世界史B 研鑽ー43

https://nishiharu-jsk.hatenablog.com/entry/china3
と(西)について、今日は研鑽しようと思う。夏という古代王朝も知られているが、現状では殷が最古の王朝と言うことになる。この辺は考古学の世界であるし、後期(前1300年から滅亡まで)の殷墟(大邑商)から出土した甲骨文字では、「」、後の周は先代の王朝名として「殷」を用いていた。

伝説上の殷の始祖は契とされている。玄鳥(ツバメ)の卵を食べて生まれたという。女神が野外の水浴の場で、天から降りてきた鳥の卵を呑んで妊娠し、男の子を生むというのは、北アジアの狩猟民族の始祖伝説であり、殷人が北方の狩猟民出身であることは間違いなく、モンゴル高原から南下し河南の夏を征服したようである。…中国を漢人の国という概念を最初からぶち壊すような話である。

史記で殷とくれば、最後の暴君・紂王と妲己で、酒池肉林の故事成語で有名。それ以外にも、甲骨文字の解読から、殷は氏族共同体の連合体で、仮説だが殷の王室は10の王族からなり、「甲」「乙」「丙」「丁」(「丙」は早い時期に消滅)の4氏族の間で、定期的に王を交代し、それ以外の「戌」「己」「庚」「辛」「壬」「癸」の6つの氏族の中から臨時の中継ぎの王を出したり王妃を娶っていたと推測されている。…徳川御三家と御三卿のようなシステムで、面白い。

殷の社会はと呼ばれる氏族ごとの集落で、数千の邑が数百の豪族や王族に従属していた。殷王は神界と人間界を行き来できるシャーマンであるとされ、後期には大量の生贄を捧げる鬼神崇拝が発展し、殷王は自らの地位は強固になったが、戦争捕虜を生贄にささげる慣習が周辺諸氏の恨みを買い滅亡したという説もある。

殷の軍事は、普段は農耕を行う氏族の構成員が氏族の貴族の指揮のもとで武器を取り出征した。大量の戦車(チャリオット)を使う三師戦法(左・右・中に分け連携する)が使われた。

周も、西方遊牧民出身であることは明白で、武王の時、周公旦・太公望・召公奭(しょうこうせき)ら名臣の補佐のもと、服属していた紂王を前1046年に牧野の戦いで破り周王朝を創始した。武王の死後も名臣たちが成王・康王らを支え天下泰平、40年にわたり刑罰を用いることがなかったという。(成康の治)…このあたりが、儒教において(西)周が理想的な時代とされるわけだ。

教科書で周の学習で重視されるのは、封建制。周は一族や功臣や各地の土着の首長に封土(領地)を与え、諸侯として、代々その地を領有させた。(けい:大夫の中で大臣となる者)・大夫(たいふ:周王の直轄地では周王に、諸侯ではそれぞれの諸侯によって封建された小領主の貴族階級)・(し:大夫の一族中の男子や厳重農民の集団の長などからなる戦士で兵団を構成した)という身分も制定された。同時に氏族のまとまりが重視され、宗法(そうほう)がつくられていく。宗族は同じ苗字を持つ集団で、現代中国でも夫婦別姓が守られている。この中国の封建制とヨーロッパの封建制は、かなり相違がある。ヨーロッパの封建制はフューダリズムと呼ばれ、君臣関係は形式的で、君主に対して年貢を払う必要もなく、君主は領地に口出しできない。(不輸不入権:インムニテート)臣下は君主に対し軍役を担うが、双務的なものである。これらの関係が血縁とは無関係に取り交わされるのが、ヨーロッパの『封建制』なのである。

ところで、第10代の王の時、悪政に大反乱が起きて辺境に逃げ出した。王が不在の間、周定公(しゅうていこう:周公旦の後継者)と召穆公(しょうぼくこう:召公奭の後継者)の2人の大臣が、合議制で「共に和して」政治を行った。この故事が、英語のrepublicの和訳:共和制となった。

さすがの周も、前770年、犬戎(けんじゅう)の侵入で、首都の鎬京が陥落し、洛邑(後の洛陽)に遷都される。これ以前から後継者争いで東西に分かれて対立、これ以後は東周となり、春秋戦国時代となる。

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