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もうひとつのポイントはマムルーク(トルコ系の軍人奴隷)の問題である。トルコ人はそもそもモンゴル高原の遊牧騎馬民族で軍事的に優れていて、重用された。彼らは奴隷軍人と称され雇い主から雇い主に売られたが、今でいうとプロ野球やプロサッカー選手に近い存在。このマムルークと従来のアラブ人軍人の間で対立が起こりアッバース朝は揺らぐことになる。
さらに、アミール(総督)の自立で、アミールが集めた税金が中央に集まらなくなり、官僚や常備軍への給料が払えなくなる。(アタ-制の機能不全)これもアッバース朝の崩壊の大きな原因となった。
9世紀に各地のアミールが独立し、短命なものが多かったが9世紀後半になると本格的に自立した王朝が生まれる。サーマン朝、10世紀になると、ファーティマ朝とブワイフ朝である。10世紀後半にはカラ=ハン朝とガズナ朝。今日の研鑽の中心は、これらの王朝である。
サーマン朝(873-999年)は、中央アジア最古のイスラム王朝の1つ。イラン系で、アッバース朝の権威のもとでアミールの称号をもち支配したが、自立の証をもつ。それは整備された官僚機構(ササン朝ペルシャやアッバース朝を参考にしている)とマムルークを系統立てられた教育を受けさせ、君主への忠誠と軍事力を兼ね備えていたので、マムルークの輸出が主産業となっていた。(グラームとも呼ばれる。)
ファーティマ朝(909年―1171年)シーア派・イスマーイル派がチュニジアで建国。王朝名は、アリーの妻でムハンマドの娘の名から来ている。969年、エジプトを支配下におさめ、カリフが移転。新都カーヒラ(勝利の都:アラビア語でアル=カーヒラ:西欧の訛りでカイロ)を建設。さらにイェルサレムを含む南シリアに拡大。さらにメッカを含むアラビア半島西部も保護下に置いた。スンニー派勢力を抱えることになり、融和を図りつつ、イスマイール派の最高教育機関(アズハル学院)を開講、イスラム世界各地に布教した。しかし10世紀末以来、マグリブの統治を任されていたベルベル人(ベルベル人と言う名の由来はギリシア人のバルバロイから来ているらしい。)のズィール朝が独立、ズィール朝は1051年スンニー派のアッバース朝カリフを承認した。さらにセルジューク朝、ついで第一次十字軍が到来し領土を失い、エジプトのみの支配となる。
ブワイフ朝(932年-1062年)シーア派・十二イマーム派の王朝で、建国の三兄弟の父親の名から来ている。「大アミール」以外の特記事項としては、イクタ―制(アタ-制が機能しなくなったので、軍人に対して給与の代わりに徴税権:イクタ―を与え、直接農村から徴税するようにした。多くの王朝で採用されイスラム世界で続いていく制度)である。
カラ=ハン朝(9世紀―1212年)イラン系のサーマーン朝を滅ぼし、中央アジアのオアシス地域を支配したトルコ系の王朝。君主がイスラムに改宗後、聖戦をを挑み、中央アジアのトルコ化・イスラム化が進む。
ガズナ朝(955年―1187年)サーマーン朝のマムルーク出身のアミールだったトルコ系のアルブテギーンが、半独立した政権が基礎で、5代目のサブク・ティギーンの時、サーマーン朝に代わってアフガニスタンの大部分を支配。この王朝の最大の特徴は、インドに侵攻し、イスラム化の端緒をひらいたことである。
次回はセルジューク朝である。
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