2022年1月4日火曜日

受験の世界史B 研鑽ー27

https://www.y-history.net/wh_note/13note_0402.html
今回の研修は、セルジューク朝を中心に進めたい。
大セルジューク朝(1037年-1194年/ルーム・セルジューク朝1077年-1308年)トルコ系・ペルシャ人(ペルシャ語が第一の共通語)のスンニー派の帝国。建国者はトゥグリル・ベグ。アラル海に近い本拠地からホラーサーン(イラン北部)に侵攻しブワイフ朝を滅ぼし、さらにバグダードを確保。1055年、シーア派のブワイフ朝からスンニー派がバグダードを奪還したことになる。マリク・シャーの時代の宰相ニザームルムルクは、シーア派のファーティマ朝に対抗してニザーミーヤ学院を建てた。1071年のマラズギルトの戦いで東ローマ帝国からアナトリア半島のほとんどを征服、第1回十字軍の原因の1つとなった。カラハン朝やガズナ朝はセルジュークを専制君主として認めざるを得なかった。
しかし、マルク・シャーの時代が終わると大セルジューク朝は4人の息子の領土配分をめぐり分裂。1077年、スライマーン・イブン・クタルムシュ(:スライマン1世・トゥグリル・ベグの甥の息子)がアナトリア半島でルーム・セルジューク朝(ルームはローマの意でアナトリアの支配を意味する)を建国。その他、シリア、ペルシャなどに分裂。
第1回十字軍の際は、この分裂した国家は自国領を強化・隣国支配の方に関心があり、1096年の民衆十字軍を破ったが、王子十字軍の前進を止めれず、またグルジア王国との戦争の方を重視したので、イェルサレムを奪われる。その後、十字軍国家と断続的に戦闘が続き、第2回十字軍が来るが、西欧側がバラバラに行動したので押し返した。
東から西遼(カラ=キタイ)耶律大石が侵攻、カラハン朝は滅亡、ゴール朝もホラズム朝により滅亡し、1194年にホラズム滅ぼされる。ただ、ルーム・セルジューク朝は残った。
ところで、大セルジューク朝の首都は教科書に書かれていない。君宗は、ニシャプール、レイ、イスファーンなどの都市やその郊外に滞在し、そこが中心地となった。ペルシア語では首都を「玉座の足」としており、移動可能なものだった。

ホラズム・シャー朝(1077年-1231年)アムダリア川流域(アラル海南岸)のホラズム(現在のウズベキスタンとトルクメニスタン)にトルコ系マムルークのアヌーシュ・テギーンがセルジューク朝の総督として任命されたのが起源。西遼(カラ=キタイ)と勢力争いをしながらも、イランに拡大し、1194年セルジューク朝を滅ぼす。さらに1215年ゴート朝を滅ぼし、1217年にはイラクに遠征アッバース朝に圧迫を加えイランのほとんどを屈服させた。しかし、モンゴル軍に滅ぼされる。

イル=ハン国(1258年-1353年)現在のイランを中心にイラク、アナトリア東部まで支配したモンゴル帝国を構成する地方政権で首都はタブリーズ。モンゴル帝国第4代皇帝である兄モンケにより、フレグが西アジア遠征を命じられ(1253年)、1256年イランの行政権を得、暗殺教団(ニザール派=アサシン)を降伏させ制圧。1258年イラクに入りバグダードを攻略アッバース朝を滅ぼし(=カリフ制度の消滅)、さらに1260年、シリアのアレッポとダマスカスを支配下に置いた。1260年、兄モンケの死の報を受けカラコルムへ戻るが、帝位継承戦争が始まったことを知り、西アジアに留まり自立王朝としてイルハン朝を開くことを決断。
他のモンゴル帝国の地方政権と領土をめぐり対立関係にも陥る。これらに対抗して、イルハン朝は東ローマ帝国と結ぶ。フレグの母や子がネストリウス派(コンスタンティノポリス総主教ネストリオスによって説かれた三位一体・イエスの神性と人性を認めるが、位格は(神各と人格に分離され、受肉によって人性に統合されているとする。431年の公会議で異端とされ、ササン朝ペルシア帝国に亡命、7世紀から中央アジア・モンゴル・中国:唐では景教へと伝播した。)であったことも関係しているかもしれない。フランスのルイ9世と組み、マルムーク朝を責めるが撃退された。(マルムーク朝は、十字軍とモンゴル軍を撃退したわけだ。フレグはこれ以前に死去している。1268年)
1295年、第7代ハンに即位したガザン=ハンはイスラム教に改宗、イル=ハン国はイスラム化する。ハラージュ(地租)税制、イクタ―制などを導入した。しかし、結局ハン位をめぐって1316年頃から解体が進む。

次回は、エジプトに移って、アイユーブ朝とマルムーク朝を中心に研鑽したいと思う。

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