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| https://note.com/eytn_1a5zb7x/n/n45b7ffe2ed8f |
仏教における「仏陀」は宇宙の真理を悟った人間である。神ではない。佛教の定義に、仏陀になるための教えというのがある。大乗仏教では、出家者は自らも仏陀になることを目指すとともに在家をも仏陀にしようとするが故に「大乗」(バスのような大きな乗り物)なのである。中観における空の思想、唯識における人間の意識・無意識の分析、如来蔵による仏陀になる因が(唯識の最下層にある阿頼耶識に)に内在するといった大乗仏教の哲学が基盤となって、「一切衆生悉有仏性」(全ての人間には、仏陀になる因が内在している)という法理となった。仏教の理想は、仏陀になること=宇宙の真理を会得することである。
道教は、中国の民間信仰と仏教が混じり合ったもので、神仙思想を生んだ。仙人は道教における仏陀のような存在である。現実主義的願望・不老不死を体現しているところが中国らしいといえば中国らしい。
さて、朱子学はこういった仏教・道教の影響化で、理気二元論に到達する。本来儒学は、哲学的考察をもった倫理である。理は、形而上的な宇宙の真理であるので、様々に言語化されている。気は形而下的な存在であるので、これまた様々に言語化されている。朱子学における理は、四書五経から導かれるので、人間に当てはめると「道徳的な正しさ」と言うのが最も妥当だろう。この理を体得するために、居敬窮理がある。居敬は、ストア派のアパティアに近い、魂の平静である。窮理は、理を学問的(=四書五経)に追求することである。
こうしてみると、仏教・道教・朱子学、それぞれ相違点があるものの、宇宙の真理への渇望という共通点が見られる。「東方」の正教会の修道士との関連が実に興味深い。
私は、授業では、日本の江戸幕府の官学となった林家の「上下定分の理」で説明することが多い。(朱子学は宋代では結局主流にはならなかったが後世では科挙にも使われ、東アジアに伝播した。)この理気二元論/上下定分の理から導かれた、武士は武士らしく、農民は農民らしく、コンビニの店員はコンビニの店員らしく、高校生は高校生らしく、といった職業的立場的プロフェッショナルを目指す姿勢・理念こそが、日本の価値観の中で、最も顕著かつ有益に働いていると考えている。
受験生の質問に、最後にドジャーズの大谷投手の話で答えた。大谷投手は、まさに居敬窮理の象徴的存在である。その前提として、東北の岩手出身であることも大きいように思える。東北の人は粘り強い=メンタルが強い。(昔々、商業高校の修学旅行で、東北を訪れた時のバスガイドさんは凄かった。生徒たちは眠りこけているのに、車中ガイドをひたすら続けていた。厳しい風土の中で培われたものだと感心した。)平常心を失わず、常に謙虚に野球と、仲間・対戦相手や観客に向き合う姿は、まさに居敬である。さらに極めて練習熱心で、データの分析にも熱心な姿は窮理としか言いようがない。大谷選手本人が、理気二元論・朱子学の徒であるとは思わないが、自然に東北出身という風土的なものも合わせて、日本人の良さを見事に体現しているように思うのである。



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