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ところで、戊申戦争時の新政府軍は各藩からの借り物であった。その後廃藩置県をして国民国家化・国民皆兵の第一歩をしるしている。だから、靖国に新政府軍を勝利に導いた大村益次郎像があるが、私にはちょっと違和感がある。戊辰戦争の新政府軍=日本軍ではないからだ。
実際には、長州で武士以外の軍隊である奇兵隊が生まれ、ここで頭角を現した山縣有朋が、西郷の力を借りて国民皆兵制度による日本軍を作り上げたというのが正しそうだ。ところで、武士でない軍隊=国民皆兵の元祖=奇兵隊は高杉晋作が作ったとなっているが、少し複雑である。長州藩(毛利家)というのは、関ヶ原以来徳川の敵中の敵でかなり領地を減らされた。その際、武士の身分を捨ててまで毛利の殿様についていきた者も多かった。彼らは元毛利家の武士である農民である。彼らが奇兵隊の主力となったと「天皇の世紀」にある。高杉晋作は確かに並外れた人物だが、そういう素地が長州にすでにあったわけだ。したがって、松下村塾に短期間ながら在籍し、高杉に認められた故に、かなり低い身分の士族だった山縣が軍監にまでなれたし、新日本陸軍を武士出身者で固める意思など山縣にはなかった。国民皆兵の農民出身者を西洋式の銃を扱えるように集団訓練したわけだ。武士より農民が強いと完全に認められたのは、皮肉なことに山縣とともに廃藩置県を行った西郷を討った西南戦争で、である。
さて、明治期の軍隊はどうだったか?海外の出兵は、征韓論を否定しながら、一方で台湾出兵を行っている。江華島事件もある。これらも様々な論があって、その正邪は難しい。さらに日清戦争、日露戦争と続く。「坂の上の雲」では、両戦争について書かれている。日清戦争については、特に正岡子規が陸翔南の日本新聞の記者として近衛師団付きのの従軍記者となっている。(ところが、上陸2日後に下関条約が結ばれ、帰国の船中で喀血している。鳴いて血を吐くホトトギスに自らを重ね子規という俳号を使うようになる。)子規の病死は1902年。日露戦戦争は1904年であるから、子規は秋山兄弟の活躍を知ることはなかった。…つづく。
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