2020年2月2日日曜日

宇和島の伊達博物館にも行く

宇和島市立伊達博物館と伊達宗徳像(逆光ですが…)
昨日の宇和島でミュージカルを観た話の続編である。Iご夫妻の車で行ったのだが、かなり早く着いた。開演までの時間を有意義に使おうと「市立伊達博物館」に妻と行ってきた。

私の属性のある日本史は、やはり幕末から明治維新である。宇和島藩と聞けば、幕末の四賢侯の1人伊達宗城が連想される。彼は長州出身・適塾出身の村田蔵六(=大村益次郎)を呼び、蘭書を翻訳させ、日本人の手だけで蒸気船を作ったことで有名である。私は、この博物館にその模型があるのではないか、と思っていたのだ。…しかし残念ながら、展示されていなかった。

ところで、伊達宗城は四賢侯として、王制復古の大号令後、短期間ではあるが新政府に入ったが、徳川慶喜を討つという薩長に反対し、戊辰戦争にも反対し、新政府を離れる。昨日のミュージカルでは伊達政宗が重要な役割を務めていたのだが、ここぞと言うときに自己のの主張を曲げないところが似ている。戊申戦争後、新政府に乞われ日清修好条約全権として李鴻章と折衝したが、その後引退している。面白いのは、児島惟謙のエピソードである。宇和島藩出身者が新政府の中にあまり出ていないのは、殿様が新政府と距離を置いたからだと推測できるが、唯一宇和島出身で教科書に出てくるような人物と言えば児島惟謙である。児島惟謙は大津事件(ロシア皇太子を巡査が切りつけ怪我を負わせた事件)で司法権の独立を守った人だ。(後の関西大学の創立者でもある。)政府から、児島の元主君として、辞職するように説得するよう要請を受けた伯爵・宗徳は「会って説得したが、児島は涙ながらに拒否した。」と報告した。実際には児島に会わず、同じ書面の手紙を同封して留任を迫ったという。たいした男気である。これまた伊達政宗の血であろうか。…私はこういう話、大好きである。ちなみに、宇和島城の入り口に児島惟謙の銅像もあったのだった。
撮影OKの表示があった「参勤交代用の和船」
ところで、蒸気船の展示はなかったが、参勤交代の時に使った船の模型はあった。宇和島から佐田岬半島の塩成まで来て下船、半島で最も狭い地峡を超え、三机集落で待機、佐田岬を迂回してきた船に代々乗っていたようである。昨年行った三机集落の遺跡を思い出したのだった。

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