能登町まちなか鳳雛塾 https://www.facebook.com/pg/machinakahousu/posts/ |
使われなくなった公民館で同居している書道部と公営塾が、顧問の先生によって結ばれ、3月8日の金沢で行われる東日本大震災被災者支援イベントで書道パフォーマンスを行うにあたってのメッセージをじっくり考えだしたという記事である。公営塾の講師・飯野さんはアイルランド文学を専攻した方で、「言葉を大事にする人」だと顧問の先生は考え、共同制作を呼びかけられたようだ。私の知人が、この飯野さんの友人で、先日まで書道パフォーマンスの指導をしていて、この新聞記事(下記/中日新聞)を紹介してくれた。公営塾の地域創生への取り組みとしても、実に素晴らしい取り組みだと思った。さっそく同じ石川県のT先生にこの記事を紹介したら、3月のイベントに是非参加したいと言ってくれた。T先生もまた、東北大震災の地を歩き、様々な想いを巡らせているからだと思う。
震災の時、今の高校生は小学校低学年。いかに上っ面でない言葉を書くか。かなりの葛藤があったと想像できる。講師の飯野さんは、様々な文学作品や映像を駆使して、生徒と生身で関わったと私は思う。なぜなら、そのメッセージには「言葉の力」が秘められているからだ。
二度とは来ない あの日を想う
今日という日の 儚(はかな)さに気付く
だからあなたに 挨拶をおくろう
こんにちは こんにちは
あなたと今日を お祝いするために
あなたと今日を 思い出すために
このメッセージを読んで、私が感じたことを恐れずに記しておきたい。
「今日という日の儚さ」という無常観と、「こんにちは」という何気ない挨拶の言葉の絶妙なバランスがこのメッセージの根幹をなしているように思う。
ウィトゲンシュタインの言語ゲーム的に言えば、「こんにちは」という挨拶の中に、様々な意味合いが存在しているということだ。このメッセージでは、あなたと今日を、「お祝い」し、「思い出す」という意味合いを持っていることを明らかにしている。なぜお祝いなのか?なぜ思い出すためなのか?
それは、現実に今存在していることの尊さを認識し、それは過去の事となっても未来に輝き続ける尊さであることを意味しているように思う。
人間存在は、ブティストの私から見れば、無常である。無常であるがゆえに儚い。しかしながら、儚いがゆえに一瞬一瞬の現実存在自体が尊い。なぜなら、現実存在の一瞬一瞬の因と縁が、未来の果や報となるからだ。だからこそ祝い、思い出に昇華するのである。「こんにちは」という出会いの挨拶には、それらの縁起(=因縁)の原理が内在している。このメッセージは、震災に会われた方々と出会い、挨拶を送り、未来を共に拓いていこうと呼びかけているのではないだろうか。
https://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2020021002100010.html?fbclid=IwAR1WieaBgdkXVBS-WVnhQ1GExcrAkmrdvbri0qQze9VUSZi9UtwG4DaUztg
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