だっこちゃん |
1960年。アフリカの年である。私は2歳児である。日本は、高度経済成長の助走に入ったころだ。宮本先生は、イタリアのピサから、国連所属の4発プロペラのカナダ軍用機で、トリポリへ。サハラ砂漠を越え、ナイジェリア経由で首都のキンシャサ(当時の名は、レオポドビル)に入っている。布製のベンチだったらしい。…時代を感じる話である。なお、MIYAさんも書いておられるが、「土人」という今から見れば差別的用語が使われているが、当時は問題視されていなかった。宮本先生の回想録を読めばよくわかるが、決してコンゴの人々を蔑視されているようには見えない。医師の目で様々な問題を批判されている部分はあるが、ヒューマンな回想録である。タイトルも「だっこちゃんの故郷」となっている。”だっこちゃん”とは、私が子供の頃流行った黒人風のビニール製の人形(画像参照)である。
この回想録、かなりの量である。MIYAさんの貴重な資料なので紹介しておきたいという執念を感じる。私が特に印象に残ったところをいくつか紹介したい。
治る見込みのない難病の子供がいた。「今のうちにその事実を家族に伝えてはどうか。」と看護師の男性に言うと、「私たちもそれを知っています。しかし不幸な結果を今のうちから早く告げて家族を悲しませる事はない。」と控えめに言ったという。この言葉に宮本先生は心打たれるのだ。日本ではあたりまえでも、アフリカの文化的・社会的風土を離れてはありえない。宮本先生は、「今も忘れられないアフリカの言葉」と言われている。…アフリカから学ぶという姿勢が素晴らしい。
現地語のリンガラ語の話が出てくる。リンガラ語には、「ありがとう」という言葉がない。豊かな太陽とジャングルの恵みの中、耕すことなく食物の与えられる世界で、感謝を表すコトバがないのは当然かもしれないと宮本先生は思索するのだ。また、「昨日」と「明日」、「一昨日」と「明後日」は同じ言葉である。「さよなら」には、立ち去る者の”さよなら”と留まる者の”さよなら”があるという。
現地での生活の話も面白い。政情不安定なニュースは、フランス語のわかる赤十字社の通訳Wさんがソニーのトランジスタラジオで聞いていたらしい。彼はノイローゼになるほど心配したらしい。が、フランス語が解らない医師は呑気に、空き箱に線を引き、硫酸キニーネ錠剤(マラリアの薬)を白石、ミネビタール(日本の三共製薬の総合ビタミン剤)の赤い錠剤を黒石がわりに碁を打っていたらしい。…なかなか面白い話である。
三か月の任務を終え、帰国時には、先日私がブログで書いた象牙の細工が送られている。(…時代を感じる話だ。1月27日付ブログ参照)現地には、白衣やシャツ、靴や、ソニーのポータブルラジオを贈ったとのことである。
長い回想録だけれど、また時代を感じる回想録だけれど、宮本先生の医師としての冷静かつ患者への熱い思いがあふれた文章だった。紹介していただいたMIYAさんに改めて感謝したいと思う。もし、興味とお時間があれば是非読んでいただきたい。
http://let-us-know-africa.blogspot.com/p/congo.html
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