2012年1月14日土曜日

ザンビアの教育事情から

このブログの読者で、ザンビアで理数科教師としてJOCVで頑張っている桐生さんから、先日、活動報告がメールされてきた。ちょうど、JICA大阪の高校生セミナーでも途上国の教育への関わりがテーマになったことだし、少し長くなるが、是非とも紹介したい。

 『先日、学期の真っ最中にも関わらず、女性教諭の一人が 「このクラスの担任を交代してくれないか?」 と言ってきました。 「私はクラスコントロールに失敗したから、ギブアップした。」 とへらへら言っています。ふざけるな。即決で断りました。 ここで引き受けたら「桐生に頼めば面倒な仕事を引き受けてくれるぞ」という噂が広がって職務放棄する教員が増えるのがこれまでの経験から目に見えています。 ギブアップというのは、全力で努力した上でそれでも力及ばずに、そしてさらに努力して再挑戦するプロセスから逃げることを決断をした時にのみ使う言葉です。 本当に彼女に言ってやりたかった。あなたは教師として最低限の事をこの子ども達にしていましたか?と。 毎日学校に遅し、気分が乗らなければ欠勤し、生徒が呼びに来るまでは授業に行かない。担任と言っても生徒の名前も知らず、出欠も取ったことが無い。「忙しい」と言って職員室でおやつを食べて雑談しているだけ。そして、たまに教室に行ったかと思えば、出来ない子どもを適当に怒鳴りつけるだけ。
1 年間そんな事を繰り返された結果、そのクラスはクラス人数 45 人いるのにかかわらず、学校に来ているのは常時 10 数名という状態、不登校率7割という状態になりました。 そんな崩壊した子ども集団を残して、 「あ~失敗。もう面倒だから無理。あとはお願い。」 と言ってくる神経は、理解など到底出来るものではありません。ただ、その女性教諭も開き直って全く聞く耳も持たず、最終的には見かねた男性教諭がそのクラスの担任を交代することになりました。
この女性教諭に限った話では無く、ザンビアの多くの学校で状況は同じです。最初の頃は、どうしたらこうした先生方の勤務態度を変えていけるのかと悩んでいるのですが、今では、こういう教員に対する僕のスタンスはもう決めています。「何もしない」です。
そのスタンスで何年間も働いてきて、そしてその風土が多数派である学校において、外国人が小言を言ったところで良いことは一つもありません。それよりも、圧倒的少数派であってもここで交代を申し出られるような熱意ある男性教員のサポートを全力で行い、学校の片隅に少しでもいいから「子どものために何が出来るか考える」雰囲気をそうしたザンビア人と一緒に作ること、そして自分のエネルギーは目の前の子ども達のために注いで出来ることを必死にする背中を見せる事、それが自分に出来る事だと思っています。

ヨーロッパや日本のように、社会の変化からの必要に迫られて「学校」という装置が作られたのと違い、ザンビアでは先進国の真似事をして「学校」という仕組みを形だけ維持させているだけのように感じることが多々あります。そこでどんな子ども達を育ていのかという理念が感じられず、ザンビアの日常とかけ離れたイギリスと同じ教科書を黒板に写しているだけです。
この国に「学校」を作ることに何の意味があるのだろう。 ずっと向き合い続けてきた問いであって、多分正解は 2 年経っても出せない問いのだと思います。でも、少なくとも、この女性教員のような、責任感が無く努力する価値も知らない大人を再生産しないことは求められていると思います。
これは、援助現場で批判される「価値観の押しつけ」でしょうか?自分はそうは思いません。教育現場における信念とは、非常に穿った見方をすれば価値観の押しつけです。それが無ければ教員という仕事は出来ません。 あせらない、あわてない、あきらめない。 』(注:”あせらない、あわてない、あきらめない。”というのは、JOCVの活動に必要な3つの「あ」だということです。)

熱血派の桐生さんの嘆き。桐生さんが1年間、ザンビアで感じたこと、それがここで率直に語られている。もし、JICAの高校生セミナーの時に、ザンビアの教育現場改善プロジェクトがワークショップのプログラムの1つに入っていたら、参加した高校生はどう反応したのだろうかと考えてしまう。

私は、この桐生さんの報告の中で、非常に重要な示唆と考察があると思っている。「ヨーロッパや日本のように社会の変化に迫られて「学校」という装置がつくられたのと違いザンビアでは先進国の真似事をして「学校」という仕組みを形だけ維持させているだけのように感じる」という部分である。アフリカの多くの国でデモクラシーがデモクレイジーになってしまったように、エドケーションが、エドフォーマルになっているのかもしれない。

先日、政治経済の授業で、日本の近代化を語っていた。私は江戸幕府を倒した明治維新より、実は「廃藩置県」の方がはるかに革命的であると思っている。全ての大名から下級武士まで全ての士族が一瞬で失業した大革命である。その後、士族は「学校」に行き、専門知識を得ることで生き延びようと考える。明治以降、日本の近代化が成功・発展した背景には、こういう士族の教育への関心の強さが莫大な中間管理職を創造したからだと私は思っている。

たしかに、ザンビアをはじめ、アフリカ諸国にはそういう歴史的背景がない。「教育」の必要性は開発経済学が等しく説くところであるが、”教育への意識の底流に流れるもの”へのアプローチが、非常に重要だと痛感した次第。先日(12月5付)ブログでも書いたが、様々な就学率向上への社会実験が行われているが、結局のところ、幸せになりたい、豊かになりたいという煩悩のような気がするのである。つまるところ、アフリカの人々の幸福観というところに帰着するのではないだろうか。この問題、とても1回のエントリーでは書ききれないので、改めて思索したいと思う。

とにかくも、ザンビアで頑張る桐生さん、自分に出来ることを3つの「あ」を胸にやり抜いて下さい。”アフリカに学ぶ教師”の一人として、遠く日本から応援しています。
桐生さんのブログ:http://jocvzambiakiryu.blog136.fc2.com/

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