2012年1月7日土曜日

「遊牧民から見た世界史」を読む

2年生普通科文系の世界史Bは、2単位なので、3学期からはやっとこさ中国史に突入する。5クラスのうち、何クラスかは、すでに中国の風土の話をしている。中国と一口に言うが、13億の人口の多くを支えているのは東部の海岸部の平野地帯である。西部は農耕すらままならない。気候と地形・土壌といった自然環境と農耕・牧畜の法則性を語っていたら1時間終了となる。穀物の中で最も人口支持力が高いのは米である。次に小麦、さらにトウモロコシ、雑穀となる。これは、栽培の難易さ、(特に降水量と気温)と反比例の関係にある。米以外の穀物はカロリーの補充として牧畜が行われる。全く農耕が出来ない地域では、遊牧という牧畜携帯となるわけだ。それだけ環境が厳しく、人口支持力が低い土地だということになる。(こういう地理的な法則性は、世界史においても非常に重要だと私は思っている。)これが理解できてこそ、やっと遊牧民の話ができる。中国史は、ユーラシアを闊歩した多くの遊牧民との関わりを抜きに語れない。そんな事情もあって、「遊牧民から見た世界史」(杉山正明・日経ビジネス人文庫・昨年7月1日発行)を手に入れて読んでいる。

先日、東洋史が専門のF先生と話していいたら、著者の杉山先生は京大のユーラシア学会の重鎮らしい。F先生の専門は中国史なので、杉山先生の対場からすれば、東洋史を中国史として認識している輩なんだそうだ。すなわちユーラシアから見るのが正しい東洋史だという立場なんだとか。なるほど。資料集などを見ると、”ユーラシア全体から見る”というページがあったりして、私が教師を始めたころとは大部様相が変化している。これも歴史学の学説の進捗からくるものなのだろう。

この文庫本、かなり内容が濃いテキストである。ユーラシアの風土の紹介だけでもなかなかの濃さであり、読み進むのにわりと時間がかかったのだった。ところが、一気にスピードがあがった。それは、アケメネス朝ペルシャのダレイオス大王が黒海北岸の遊牧国家スキタイに攻め込んだ話からである。アケメネス朝ペルシャとくれば、普通ギリシアとのペルシャ戦争が有名である。杉山先生は、こう記しておられる。

『(スキタイにペルシャ軍が敗北した後)前4世紀末までのおよそ200年ほど、ユーラシアの西半では、北のスキタイと南のアケメネス朝ペルシアが、カフカズと黒海、カスピ海をへだてて南北に並び立つ形成が続いた。そしてかたわらにギリシアがあった。従来ともすればペルシア対ギリシアの「東西対立」ばかりいいたてて、こちらの「南北対立」については目を向けようとしない。(中略)人間とは、思い込みやすいものである。頭になにか前提がインプットされていると、なかなかその枠組みの呪縛から離れられない。この場合、ギリシアを無条件に中心とする西洋人の言う事を、そのまま鵜呑みにしている感はぬぐいがたい。』私は、なるほど、と思った。まさにそのとうりだと思う。

Scythae
少し長くなるが、このスキタイVSペルシア戦争も面白い。(ちなみに原典は、ヘロドトスのかの有名な『歴史』である。)ダレイオスは、70万の大軍を黒海北岸に送るのである。ボスポラス海峡を浮き橋で越え、ドナウ川を越えた。しかも偵察と補給のために黒海に艦隊を海岸線に浮かべていた。ダレイオスの戦略は凄い。地理に不案内故、陸軍だけでカフカス山脈を越えるという冒険をしない。しかも海軍を見たことがない敵への威嚇。さすがである。しかしながら、ドナウの河口付近は沼地が多く、海岸線の行軍が不可能になり、本隊と艦隊が離れてしまう。スキタイ騎馬軍団は、ここで本隊にゲリラ的に攻撃をしかけ、さらに奥地にさそう。そこで、焦土作戦を行うのだ。補給のための艦隊と引き離され、奥地で糧食を断たれたペルシア軍は、8万の兵を失い、ドナウ川まで撤退するのだ。ダレイオスは二度とスキタイとは戦わなかった。

ロシアがナポレオン、ナチス=ドイツ、そして日露戦争にとった撤退しながらの焦土作戦。実はこのスキタイの戦いに源があったのだ。”大陸国家の一種の体質”と杉山先生は評しておられるが、この話、無茶苦茶面白かった。私はこういう目からウロコが何枚もはがれるような学びが、なにより面白いと思う。さて、こういう話を授業にどう生かすかである。

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