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ヘンリー8世時代の改革で注目すべきは、閣僚で議会を主導したトマス・クロムウェルが修道院(ローマ教皇庁の収入の源泉)の財産を遮断(経済面での国王の権力強化に繋がった。)、さらに「上告禁止法」(聖職者がローマ教皇裁判所へ上訴することを禁止する法)をそれぞれ議会で立法化し、前述の「国王至上法」(国王をイングランドにおける教会の「地上における唯一至高の首長」との宣言)を成立させた。
教会の立場から、ヘンリー8世を支えたのが、トマス・クランマーである。1533年にカンタベリー大主教となった彼は、国王の離婚を認め、アン・プ―リンとの結婚を公式に認めた。彼は、教会に英訳の(大きく完全な)聖書を誰にでも読める場所に設置することを、国王公認の下進めた。これで、教区民は誰でも聖書に接する機会を得、大きな反響を読んだ。この聖書の英訳事業は、その寸前まで異端行為で、実際翻訳事業に携わったティングルが火刑になった3年後である。この聖書の件は、ルター・カルヴァンの宗教改革の流れの中にあるといえるだろう。
ヘンリー8世の死後、唯一の男子王位継承者エドワード6世(画像参照)が9才で即位した。その生母ジェーン・シーモア(彼女はアン・プ―リンの侍女で、3番めの妻だが産褥死している。ちなみにカトリック教徒だった。)の一族エドワード・シーモアが護国卿(摂政)となって実権を握る。彼の失脚後はジョン・ダドリーにが実権を握った。彼らはカルヴァン派の改革派で、シーモアは「礼拝統一法(1549年:カンタベリー大司教クランマー主導の共通祈祷書をイングランド唯一の祈祷書とした。多分にカルヴァン的で西部のカトリック教徒の反乱が起こった。)」を制定した。エドワード6世が改革派の信仰を強めていたこともあり、シーモアよりは改革派的でないと思われていたダドリーだが、枢密院の命令として聖像破壊、保守派の聖職者の追放と改革派の登用を進め、1553年にはルター派が用いるアウグスブルグ信仰告白をもとに42信仰箇条を制定した。この信仰箇条は、後のエリザベス1世時代の39信仰箇条に引き継がれ、聖公会の基礎になっている。
と、エドワード6世時代には、一気に聖公会は改革派的になるのだが、肝心のエドワード6世が15才で崩御してしまう。カザリンの娘、バリバリのカトリック教徒で、父・ヘンリー8世を恨むメアリ1世が即位して大転換することになる。
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