https://ameblo.jp/rumikoflowers london/entry-12143631532.html |
1570年に、トマス・カーライトが「使徒行伝講義」で主教制を否定、長老主義的立場を唱え、著者不明の「議会への勧告」では、主教制の否定、陪餐時の跪拝(ひざまずくこと)の禁止、結婚式時の指輪の使用などを非聖書的であると廃止を呼びかけたり、教区会制度の枠組みの中で長老制の教会制度(クラシス)を確立しようとしたり、聖書釈義集会という情宣活動の場を生み出したりした。エリザベス1世は、この聖書釈義集会の禁止、説教者の削減を命じた。しかし、改革派に共感していたカンタベリー大主教(画像はカンタベリー大聖堂のステンドガラス:カトリック的である。)・グリンダルはこれを拒否、職務停止される。1589年には、ロバート・ブラウンが、国家との一切の絆を断ち切った宗教改革を主張するのだが、同年、リチャード・パンクロフト(後のカンタベリー大主教)が長老主義批判・主教制擁護の論陣を貼る。そんな中、1603年にエリザベス1世は逝去。王位継承権を持っていたスコットランドのスチュアート家のジェームズ1世が王位を継ぐことになる。
https://walk.happily.nagoya/early-modern-britain/james-i-vi_monarch-of-england-wales-sc |
このジェームズ1世とその息子のチャールズ1世(画像右)時代に、反ピューリタン政策を推し進めたのは、ウィリアム・ロードで、1628年ロンドン主教ならびにオックスフォード大学総長(カルヴァン派の影響が強かったが、それを払拭した。)となる。しかし、同年、かの「権利の請願」が議会に提出された。チャールズ1世は議会を解散し、ロードらの寵臣政治を進め、カンタベリー大主教となったロードは、1638年、スコットランドにも彼の政策を押し付けようとし反乱を招き敗北、議会が再開されると、ロードはロンドン塔に監禁され1640年処刑される。(ちなみに、これまでに登場したヘンリー8世時代のトマス・クランマー、トマス・クロムウェルなどもロンドン塔で処刑されている。これは、まさに一部で、長きにわたり、時の宗教情勢によって処刑された聖職者や信徒は膨大な数にのぼる。)ピューリタン革命によって、1645年チャールズ1世は処刑されるのだが、これは次回…。
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