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「鳥瞰するキリスト教の歴史ー宗派・教派の違いがわかるー」(岩城聰/ペレ出版)には、フランスのキリスト教史がまとめられている。高校世界史ではここまで踏み込まないが、あえて記しておきたい。ユグノー戦争後の1685年、カトリックを国教化したものの、ガリカニズム(国内の教会を教皇から独立させた体制。教皇は司祭を聖別せず空位のままになった。)という体制を取ろうとした。一方、王権神授説の柱であるカトリックに対し、ルイ14世時代の啓蒙主義者たちは理神論(理性による永遠の英知)を唱えた。革命時の1793年には「非キリスト教強化運動」が地方から起こりバリにも普及した。ロベス・ピエールは信仰の自由を国会で再宣言した後に、カトリックの神に代わる「理性の神」「至高存在」を提唱する。ナポレオンの時代、カトリックは国教ではなく、多数の宗教とし、司教は政府が指名、教皇が教会法上任命する「政教協約」(コンコルダート)を結ぶ。皇帝になる時は戴冠を自ら行い、教会を支配する意思を見せた。その後「要理書」を制定、教会に皇帝への忠誠を誓わせた。ナポレオン失脚後も反動、革命の連続であったフランスだが、”宗教改革を武力弾圧で押しつぶした中世的カトリックを、宗教改革を超える全面攻撃で解体”したフランス革命(ナポレオンの時代をも含む)の影響は極めて大きかったわけである。ライシテの伝統が息づいているわけだ。
では、現在のフランス政府を是認する存在が、対立を繰り返してきたカトリック教会ではないとすれば、それはなにか?橋本大三郎・大澤真幸両氏は「哲学」であると述べている。ここが、今回のパリ五輪開会式演出の背景であると私は感じている。
現代の哲学は、英米の分析哲学や科学哲学という軸と、フランスのポストモダン哲学という軸が中心で、私が現役の哲学の徒であれば仏語を選択していたと思う。(きっと挫折していただろうが…。)フッサールの現象学を源とし、フーコー、デリダ、ドゥルーズといった、近代の哲学や実存主義、構造主義までも破壊するパワーを持ったフランスの哲学が、ライシテの無宗教の人々に大きな影響を与えていると思われる。
実は、フーコーの死因はHIVエイズであるらしい。何を意味するかは明白であろう。彼は理性中心の近代哲学の裏に潜む物語(狂気や権力)を暴いた。デリダは、差延の概念で言葉=ロゴス=近代哲学を否定し、脱構築を唱えた。ドゥルーズは、欲望する機械という概念やスキゾな人間像を預言した。これらの哲学の詳細は割愛するとして、彼らの、伝統を脱構築し、その物語(フィクション)の真実を暴き、各個人の価値観の方向性をスキゾに展開するという論説から見れば、今回の演出にも納得(ただし前述のようにその是非ではない。)がいくのである。マリーアントワネットの生首も、LGBTによる最後の晩餐のパロディも、極めてポストモダン的な感覚の演出であるといえる。
現代フランス哲学の専門家の方々は、この開会式の演出についてどうお考えなのだろうか。際めて、フーコー的であり、デリダ的であり、ドゥルーズ的だと私などは感じたのである。
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返信削除匿名様。コメントありがとうございます。大したことは書けませんが、自己研鑽のためのブログです。これからもよろしくお願いいたします。
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