https://tripnote.jp/gambia/place-st-marys-church-gambia |
欧米列強の植民地化にキリスト教の宣教師が力を貸したことは否定できない、と著者は記している。探検家スタンレーは、当初イスラムに関心を示していたが、今やキリスト教に期待を抱いているウガンダの王のもとに、ミッションの来訪を呼びかけた。聖公会のロー・チャーチのCMSには、£12000もの巨額の募金が集まり、1877年にはザンジバル(現タンザニア)経由で最初の伝道隊が到着した。2年後にはナイル川を遡ってフランスのカトリックの布教団もやってきて、イスラムと三つ巴の布教合戦を繰り広げたという。
こういったキリスト教とイスラム教徒の拮抗は、多くの地域で見られる。ケニアでは、キリスト教徒が80%、イスラム教徒が11%、残りは土着の伝統宗教と言われている。私の大好きなケニア人(ルオー人)の故ピーター・オルワ氏も本人から聞いたわけではないが、ペテロの英語名であるのでキリスト教徒であることは間違いない。ただ、宗派は聞いていない。ケニアはイギリスの植民地だったし、聖公会の可能性は高いが、ロー・チャーチなのかハイ・チャーチなのか、あるはメソジストやバプティストの可能性もある。こういった詳細な各国の宗教事情の情報は極めて少ないので確かめようがないのである。ただ、旧宗主国の宗教がそれなりの勢力を維持しているだろうことは想像に固くない。(上記画像は、旧英領のガンビアにあるSt.Mary's Church:おそらく聖公会の教会だろうと思われる。)
第10章のコラムに、数千もの教派に分かれているアフリカの「独立教会」のことが記されている。アフリカの伝統や文化、霊性に基づいてアフリカで育った独特な教会群である。宣教師たちが列強の力を背景に聖書の内容を教条主義的に押し付け、アフリカの文化的伝統である精霊信仰を否定したことへの反発から生まれた教会群であるとも言える。
…ブルキナファソでは、ほぼキリスト教徒とイスラム教徒は半々で、墓地も両者の共同墓地を見た経験もある。もし、今の私だったら、もっと仔細に観察していただろうと思う。イスラム教徒の墓は、キブラ(メッカの方向)に、横に寝かされた頭部が向けられるはずなので、それをガイドのオマーン氏に確認していただろう。
…佐藤優氏の「サバイバル宗教論」によると、中世から近世の大学の神学部は、就業年数が16年くらいであったらしい。聖書の内容を一つづつ暗記・暗唱するのにそれくらいの年月が必要とされていたのである。これまで、カトリックやルター派や聖公会の教義比較や歴史をたどってきたが、そういう人々による神学論争であったことを鑑みると、アフリカでの宣教師が教条主義的であったことは、ある意味当然と思われるし、アフリカの伝統文化を多少知っている私としては、当然の反発と見ることも十分可能である。
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