2024年7月10日水曜日

ルターの二王国(統治)論

私は、正直なところルターという人物には違和感を持っている。極めて現代人的な発想から、ドイツ農民戦争では最初は支援し、後に迫害する側についたことと、その言動の容赦がいないことである。ルターは「強盗・殺人的農民に対して」と題する冊子の中で、「反逆者ほど悪魔的になり得るものはいないのだから、かまわず刺殺し、打ち殺せばよい。狂犬は殺さなければならない。それと同じようにやればよい。」と書いた。その後、領主によって10万人以上が虐殺された。政治支配者の庇護を受けていたルターであるから忖度したのかもしれないが、以後のルター派が政治権力に対し受動的であるという伝統が、ナチス支配につながったという批判がある。

このような政治権力との関係は、「二王国(統治)論」として展開された。神は、教会と国家という2つの権威領域を設定したという論で、どちらも神の意志によるものであるから人間はどちらにも従順でなければならないと説いたのである。まあ、中世的な思考を乗り越えることができなかったわけである。そもそも、人権という概念…、権利の章典の100年前、フランス人権宣言の200年前の話であるから仕方ないといえばそれまでだが…。

このことに対してルター批判を最初に行ったのは、カール・バルトだが、晩年に、この問題について”より包容力のある理解ができた”として、ルターの言わんとしたことが、そんなに簡単なものではないと記されている。この講義者の内藤氏もかなり複雑な問題だとしているのだが、この二王国(統治)論は、「この世の権威について、人はどの程度まで服従の義務があるのか」(1523年)というルターの書に「全ての人間を2つの部分に分かたねばならない。第一は神の国に属する者、第二はこの世の国に属する者である。それ故神は2つの統治を定め給うた。キリストのもとで聖霊によって、キリスト者すなわち信仰深い人を作る霊的統治と、キリスト者でない者や悪人を抑制して、欲しようは欲しまいが外的に平和を保ち、平穏であるようにするこの世の統治である。」としている。

その根拠の聖句として、「キリスト者はお互いの間で、自分たち自身のためには法も剣も必要としないが」(ローマ13章)「真のキリスト者は地上にあっては、自分自身のためではなく、隣人のために生き、隣人のために生きるのであるから、自分では必要としないが、隣人には有用であり、必要であることをも、おのが霊の本性に従って行うのである。」(第1ペテロ2章)を挙げている。

内藤氏によると、ルターは、卓上語録(食事中の会話を記録したもの)で、「政府は神の設けられたものではあるが、神は不徳や非行を罰する権利を保留していたもう。従ってこの世の統治者が、もしも貧しい市民たちの財産を高利貸しや悪質な管理によって浪費したり破産させてたりしているならば、大いに叱責すべきである。しかし、説教者がこまごまとパンや食肉の値段を取り決めたりすることは適当ではない。」と述べているらしい。

…この二王国(統治)論は、以前社会学的な見地で、法人たる政府を、教会が後ろ盾として認知しているという、欧米各国のモデルを想起させる。各宗派で差があるが、およそこの法則性は未だに存在すると私は思っている。だが、やっぱり、私はルターの卓上語録の言を聞いても、もうひとつピンとこないのである。さらに違和感のみが増幅してきたのだった。

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